好きな本と大切な本って似ているようで少し違う。
価値観や人生に影響を与えた本は心の本棚にしまって、大切に大切に保管する。
折々に触れて現在地を再確認したり、心を慰めたりする。そんな一冊。
サナトリウム(長期的な療養を必要とする人のための療養所)で出会った二人が、生きること、愛することと向き合う『草の花』(福永武彦)はうさぎの本棚の中でも一押しの大切な本の一つだ。
誰もがいつかはこの世を去る。誰もがわかっているはずなのに、死と向き合おうとせず、目の前の楽しさに溺れようとしているような感じがする。
目の前にぶら下げられるニンジンにばかり目がいって、自分はどこにいるのか、どこに向かっているのか、何のために向かっているのかを考える機会が少なくなっている。
ぼうっとしていてもなんとなく楽しく生きられる社会だ。
どこにいてもある程度の水準の生活はできるし、顔も名前も知らない人といつでもどこでもつながることができる。
それは素晴らしいことだし、社会の発展が悪いと言いたいのではない。
ぼうっとしていても楽しく生きられるからこそ、「考える」ことが軽く扱われているのではないか。
そんな世の中だからこそ、改めて、私たちは意識的に考えなければならないのではないか。
死を考えることはつまり生を考えることである。
「なぜ人は死ぬのか」を考えるとき、逆説的に「なぜ人は生きるのか」を考えている。
生きるとは考え続けることであり、考えなくなったそのときが死である。
死とは心肺が止まったときにのみ使う言葉ではなく、考えることを止めたときにも使うことができる。
『草の花』はサナトリウムで「汐見茂思」という青年が書き残した2冊のノートを「私」が読み、彼の胸の内に触れていくという構成になっている。
「私」と「汐見」が生きることについて議論を交わす場面での、「汐見」の次のセリフが印象に残っている。
「(中略)生きるということは、自己を表現することだ、自己を燃焼することだ。精いっぱい生きるためには、自分の感情生活をも惜しみなく燃焼させなくちゃね。」
なぜ彼は精いっぱい生きるには「感情生活をも燃焼させな」ければならないと言ったのか。2冊のノートには彼のどのような思いが綴られているのか。
私たちは命が続く限り、考え続けなければならない。答えのない問いと向き合わなければならない。
答えのない問いを考えるとき、『草の花』が一つの足掛かりとなるだろう。
中高生に読んでほしい本としても紹介しています。