誰しも黒歴史の1つや2つはもっているだろう。
うさぎは小学生のころ、兄とその友達、うさぎの友達とうさぎの4人で遊んでいたときに盛大におならをかましたことがある。
友達ならまだしも、異年齢の人の前でおならをお見舞いする気恥ずかしさったらない。
あの日に戻れるならなんとしてでもおならを我慢する。引き出しを探っているがタイムマシンはまだ見つからない。
過去は変えられないのだとしたら、今生きている人が忘れるか、いなくなるしかない。
おならの話もかれこれ20年近く前だ。みんな骨になっているはず。
過去というものはやっかいなもので、影も形もなく、ふらりと現れては心を揺さぶっていく。防ぎようのない通り魔だ。すれ違いざまにスレッジハンマーで頭をかち割っていく。一撃で致命傷だ。
人生とは過去を積み重ねることである。
カバンを抱えて終電を待つ人にも、日が昇る前から弁当を作る人にも平等に1日は降り積もる。
過去との向き合い方を考えることはつまり、今の生き方を考えることである。
『マチネの終わりに』に登場する人々も、過去に翻弄され、苛まれながらも生き方を模索している。
あらすじ
天才クラシックギタリスト・蒔野聡史と、国際ジャーナリスト・小峰洋子。四十代という“人生の暗い森”を前に出会った二人の切なすぎる恋の行方を軸に、芸術と生活、父と娘、グローバリズム、生と死などのテーマが重層的に描かれる。(Amazonより)
本作品は映画化もされているが、設定が変更されている部分があるため、今回は小説を元に考えていく。
生きると死ぬと
主人公の一人である小峰洋子は国際ジャーナリストとしてイラク戦争の取材を現地で行っていた。
ある日、ホテルロビーでの取材を終えた洋子がエレベーターに乗る直前に一人の男と目が合う。
エレベーターに乗ってしばらくして、下から大きな衝撃が起こり閉じ込められてしまう。
幸いにすぐに救助された洋子は、ロビーで自爆テロがあったこと、目が合った男が実行犯であることを知る。
”あと一つだけ質問していたら、わたしは死んでいました。何をしていても、その瞬間に時間が巻き戻されてしまいます。”
ほんのわずかな差で生死が分かれる。洋子は生き、別の人は助からなかった。
生と死を分けるのは誰かの、ちょっとした気まぐれ。
私たちの生活は気まぐれで溢れている。
コンビニで残り一個のアイスを取れたこと。
急ぐときに限ってやたらと赤信号に引っかかったこと。
年末ジャンボで千円が当たったこと。
誰かの、ちょっとした気まぐれによって私たちの「今日」は成り立っている。
突き詰めれば、生きるも死ぬも、取るに足らない些細なことに左右されている。
だとしたら、生きることと死ぬことに、どれほどの差があるだろう。
人間はいつかこの世を去る。どんなに親しい人や大切なものとも必ず別れなければならないのなら、なぜ出会うのだろう。なぜ死ぬことに変わりはないのに、生きるのだろう。
答えは出ないし、出たとしても明日には吹き飛ばされてしまう儚いものだろう。
それでも、考えなければならない。
「なぜ」を考えることが生きているということ。
なぜ、私は生きているのか
なぜ、あの人は死なねばならなかったのか
なぜ、私は生き続けているのか
答えようのない問いを考え続け、同じところをぐるぐるしている。
過去もそうだ。
起きたことは変えようがない。
なぜ、あんなことを言ったのか
なぜ、何も行動しなかったのか
もしも私が別の人だったらどうなっていただろう
ありえなかったことを考え続け、同じところをぐるぐるしている。
過去=罪
蒔野のマネージャーである早苗は、蒔野から洋子へのメールを偽装し、二人が再会しないように嘘をつく。二人はすれ違ったまま、再会せずに連絡も途絶える。自らの行為の罪悪感と向き合うために、早苗は過去について次のように考える。
”つまり、罪の裁量という考え方だった。一生涯、完全に無垢なまま行き続けられる人間など、この世にいるはずがなかった。誰もが罪を犯すならば、それは重いか、軽いかでしかなかった。この運転免許の減点法的な発想が、早苗の精神的な拠り処となった。自分はこれまでの生真面目な人生の中で、それほどの罪は犯していないはずだった。今後も犯すことはないだろう。自分の罪が飽和するには、まだ随分と余裕があるに違いない。長い人生の中で、ほんの一瞬の出来事だった。ただの出来心。それが果たして、自分という人間の本質だろうか?この先ずっと、人並み以上に善良に生き続けるのであるならば、あのたった一つの罪にも、目を瞑ってもらえるのではあるまいか?”
私たちは生きている限り、罪を犯し続ける罪人だという考えだ。キリスト教に明るくないから間違っているかもしれないが、原罪の考え方と通じるものがあるかもしれない。
早苗の発言でポイントとなるのは、彼女の行為を罪だと判断しているのは早苗自身であるという点だ。
早苗の行為は誰にもばれておらず、彼女が黙っている限り彼女の罪は露見しない。彼女を苦しめているのは周囲からの叱責や制裁ではなく、罪を犯したという自意識だ。罪悪感という機能は、自分が設定した正しいルールから外れる(外れそうになる)ことで生じる、軋みのようなものだ。「これ以上行ったら戻れなくなるぞ」というブレーキでもあるし、「もうつらい目に遭わないようにしよう」という抑止力でもある。
極端な話、早苗の行為が彼女の中で正しいと見なされるのなら、罪悪感をもつことはない。
過去、すなわちこれまでの行為にどのような価値をつけるかは、自分が決めているのだ。
自分の行為は変えられない。だが、行為の価値は変えられる。
キングコングの西野亮廣氏が近畿大学の卒業式で卒業生に贈ったスピーチに次の言葉がある。
”僕たちは今この瞬間に未来を変えることはできません。
そうでしょ? 『10年後の未来を、今、この瞬間に変えて』と言われても、ちょっと難しい。
でも、僕たちは過去を変えることはできる。
たとえば、卒業式の登場に失敗した過去だったり、
たとえば、好感度が低い過去だったり、
たとえば、アホな相方を持ってしまった過去だったり、
たとえば、友達と一緒に恥をかいてしまった過去だったり。
そういった過去を、たとえば僕の場合ならネタにしてしまえば、あのネガティブだった過去が俄然、輝き出すわけです。
『登場に失敗して良かったな』と思えるし、
『嫌われていて良かったな』と思えるし、
『相方がバカで良かったな』と思えるし、
『友達と一緒に恥をかいて良かったな』と思える。
僕たちは今この瞬間に未来を変えることはできないけれど、過去を変えることはできる”
起きてしまったことは取り消したりやり直したりはできないが、それにどのような価値を与えるかは選ぶことができる。
選ぶことができるとはいってもそう簡単に変えられるものではないことはわかっている。
それでも、過去は「絶対に変えられない、一生背負い続ける十字架」ではなく、『変え「られる」もの』であるという考え方をもっておくと少し気持ちが軽くなる。
まとめ
人生とは過去を積み重ねることである。過去は些細なことで結果が変わるくせにやり直しができない厄介なものである。
だが、過去にどのような価値をつけるかは自分で決められる。
過去との向き合い方を考えることはつまり、今の生き方を考えることである。
「考える」ことは「武器を持つ」ことだ。
武器は相手や状況に応じて取り替えることができる。ひのきのぼうだけでなく、むちやつえも使えると戦い方が広がる。
ひのきのぼうという生き方だけでなく、むちやつえという生き方もあることを知っておくと、いつかの自分を救うかもしれない。
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