本読むうさぎ

生きるために、考える

読書は神聖なんかじゃない

読書家の悪癖とでも言うのだろうか。読書が好きな人は、読書を絶対的な善と信じ切っているきらいがある。本を読むことは誰にとっても良いことで、ほかの趣味とは一線を画すものであるという信念。神格化と言ってもいいかもしれない。なぜ読書を「すばらしいもの」と見なすのかというと、読書によって救われたり、慰められたりした経験があるからだ。

私たちは常に何かを求めている。地位とかお金とかパートナーとか、それさえあれば生きていけるという拠り所。別にお金が好きでたくさん欲しいと思おうが、いつも誰かの後を追いかけていようが、何を求めているかはさほど重要ではない。重要なのは、数ある拠り所の中で、なぜそれを選んだのかということと、なぜそれを求め続けるのかということだ。

『葬送のフリーレン』で、フリーレンはかつての仲間からフェルンという孤児を旅に同行させるようお願いされる。彼女を一人前の魔法使いとして育ててほしいとのこと。旅の途中、なぜ魔法使いを目指すのかという話になり、フェルンは「一人で生きていける力さえ手に入ればなんでもよかった」と語る。

 

『葬送のフリーレン』第1巻より

『葬送のフリーレン』第1巻より

 

魔法でなくても構わないとうそぶく彼女にフリーレンは静かに告げる。

『葬送のフリーレン』第1巻より

繰り返すが、重要なのは何を選んだのかではなく、なぜそれを選んだのか、なぜそれを求め続けるのかということだ。その問いを考え続けることで、価値観とか、感性というものは磨かれると思う。

読書もそうだ。本を読むこと自体が重要なのではなく、数ある趣味の中で読書を選んだのはなぜなのか、一ヶ月で一、二冊なら読めるかもしれないが、何年もかけて何十、何百冊を読み続けるのはなぜなのかを自分に問いかけることに価値があるのだ。

読んだ数や読む速さなんて競うものではない。なぜその一冊を選んだのか、なぜその一冊を読むのかを大事にしてはどうだろう。読書は神聖でも高尚でも何でもない。なぜ読書なのか。何度でも、何度でも、問いかけてみてはどうだろうか。

a.r10.to