本読むうさぎ

生きるために、考える

私は生きた。ここにいた。

「書く」には二つの種類があるように思う。

一つは、結論がすでに決まっていて、そこに向かう「書く」。調査の報告書や質疑応答の文章などが当てはまる。理路整然として無駄が少なく、情報が完結している文章だ。

もう一つは、書きながら結論を創っていく「書く」。大半のブログやSNSの投稿はこちらだろう。書きながらその都度考えるため、話があちこちに脱線したり、支離滅裂になったりすることもある。

晩ご飯のおかずを買う際に、あらかじめ作るものを決めておいて買いに行くのと、スーパーをぶらぶらしながら何を作るかを決めるの違いのようなものか。

 

私たちは時と場合によって「書く」を使いわけている。上手な文章を書く方法を扱う本はごまんとあるし、ネットで調べれば知識やスキルが目白押しに紹介されている。

「書き方」についてはもう出尽くしたのではないかと思われるほど書かれているのに、「書く理由」について書かれた文章というのはほとんど見たことがない。

 

私はなぜ書くのだろう。なぜ書かずにはいられないのだろう。「書く」という営みは、私にとって、どのような意味を持つのだろう。ふとした時に疑問が頭をよぎると、ニキビのようにいつまでも気になってしかたがなくなってしまう。

「書く理由」を考えるとき、いつも思い出す一節がある。

 

想いを書くのではない。むしろ人は、書くことで自分が何を想っているのかを発見するのではないか。書くとは、単に自らの想いを文字に移し替える行為であるよりも、書かなければ知り得ない人生の意味に出会うことなのではないだろうか。

若松英輔『悲しみの秘義』

 

昨日の私と今日の私は違う。だから、昨日の私が書いた言葉と今日の私が書く言葉も違う。明日の私はもっと違う言葉を書くだろう。書くということは、今しか行うことができない一回きりの営みだ。意識するしないは別として、人は、いつも、今にしか書けない言葉で書いている。

「書く」ことは、生きるということでもあるのかもしれない。「書く理由」を考えるのは、生きる理由を考えるのとつながっているのかもしれない。

「これだ!」と納得する答えは出ないだろう。しかし、答えが出ないことと、考えないことは別だ。答えが出ないことを考える。問い続ける。そうやって人は、自分と向き合い、人生を深める。

「書く」ことで今の私の足跡を残す。私は生きた。私はここにいた。

この文章も結論らしい結論にはならなかった。結局何を言いたいのかわからなくなってきた。まあ、今日のところはこの辺にしておこう。

 

a.r10.to