本読むうさぎ

生きるために、考える

ただ、ひたすらに、見る

胸を打つ言葉があります。

友人の一言であったり、街角に流れる歌の一節であったり、まさに太鼓を打ち鳴らすように、心を高鳴らせる、そんな言葉。

そんな言葉と出会った経験がある人は幸福だと思います。胸を打つということは、生きている実感を持つということです。私の心はこんなに波打つのかと、自分自身に驚くことです。

うさぎの胸を打ってきた言葉は数多くありますが、そのうちの一つ、菫の話を。

 

私たちは実に多くのものを見ています。目覚めてから眠るまで、見るという活動をやめることはありません。見ることは人間にとって非常に重要な役割を担っています。

しかし、一つのものをどれだけ見ているでしょう。自分の手を思い浮かべてみてください。どの指がいちばん長いか、爪の形はどうなっているか、シワや血管がどのように配置されているか、鮮明に思いだせる人はほとんどいないでしょう。もっとも身近な手ですら、私たちは見えていないのです。

じっくりと見る。これほど簡単で、難しいものはありません。

小林秀雄『読書について』で、私たちがどんなに見ていないかを述べている一節があります。

 

諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花が咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。

 

桜が咲けば全国各地が花見ににぎわいます。きれいきれいと言ってカメラを向ける。しかし写真を撮ってしまえばもう桜に用はありません。花見客をつかまえて聞いてみるといい。桜の形や色の様子を答えられる人はまずいないでしょう。桜を見ているようで、その実見ているのは記録に残すことやSNSへの投稿ばかり。

 

菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難かしいことです。

 

言葉も邪念もなくひたすらに目の前の物を見る。この「ひたすらに」という姿勢こそ、私たちが今一度見つめ直すべきものではないでしょうか。

 

a.r10.to