本読むうさぎ

生きるために、考える

今を観る

 

桜が見頃を迎え、春真っ盛りです。

SNSにも花見を楽しむ投稿が桜の写真を添えて次から次へと流れてきます。

春といえば桜、桜といえば春。そんな方程式が成り立つくらい私たちに身近な桜ですが、はたして、私たちは本当に桜を見ているのだろうか、と考えます。

 

「みる」という言葉には「見る」と「観る」の漢字を当てることがあります。

「見る」は見学、見物のように物を目で捉えること全般を指します。見ようと意識しなくても光景が入ってくる受動的な行為です。

それに対し「観る」は観戦、鑑賞のように1つのものをじっくりと隈なく見ることを指します。意識して見ようとする能動的な行為です。

 

たとえば道を歩いている時、お昼をパスタにするかハンバーグにするかで悩んでいても木や人にぶつからず歩くことができます。これは見ようと意識しなくても何となく周りの情報が目に入ってくるからです。これが「見る」です。

一方、歩きながらパスタにするかハンバーグにするかを考えつつタバコの吸い殻を数えようとすると、パスタとハンバーグに集中できません。タバコの吸い殻に意識が集中するため、ほかのことに注意が向きにくくなるからです。これが「観る」です。

私たちは普段、全体をぼんやりと捉える「見る」と細部をしっかりと把握する「観る」を切り替えながら生活しています。

 

私たちの生活は毎日が一回こっきり、もう二度と味わうことができないものです。後にも先にもないこの瞬間に意識を向けながら生きています。生きることは「今を観る」ことと言ってもよいでしょう。

カメラの性能は飛躍的によくなり、スマホでもカメラと遜色ないほどの写真が撮れます。写真のおかげで花見の楽しみ方も広がったと思います。

写真の良さはデータとして保存し、いつでも、どこでも見返すことができる点です。

手軽に思い出に浸れるというのは、逆に言えば、一回こっきりの特別感、ライブ感が薄れるとも言えます。

 

写真をたくさん撮って家に帰ってみると、さて、外の気温や風の心地、桜を見ながら何を考えていたのか、すとんと抜け落ちたように思い出せない。

写真を撮ることに一生懸命になりすぎて、今、目の前に咲く桜そのものに意識が向いていないのではないか。

カメラやスマホに意識を向けすぎて、「今を観る」ことが乏しくなっているのではないか。

 

引っかくとすぐに裂けてしまいそうな幹の繊細さを、細くしなやかに空へと伸びる枝の図々しさを、小さい体から今にも溢れ出しそうな蕾の力強さを、私たちはどれほど観ているでしょうか。

写真を撮る前と撮った後にひと呼吸、息をつく。短くていいから、ただ桜と向き合う時間をつくる。私たちが忘れてしまっている「今を観る」という姿勢が深く求められている。そんなことを考えます。