本読むうさぎ

生きるために、考える

書くことと夜の関係 月夜にボタンを拾う

本で、テレビで、SNSで、中吊り広告で、日常のいたるところで、文字を見ない日はありません。文字を見るということは、それを書いた人がいるということ。そういえば、「書」の成り立ちはどうなっているのだろうと検索してみると、「手に筆を持つ様子(聿)」と「台の上に木切れを積んで火を焚く様子(者)」が合わさってできたとありました。

映画やドラマでその日の思い出を日記にしたためたり、思い人に手紙を書いたりするときって夜の場面が思い浮かぶように、書くことと夜には何か関係があるのかもしれません。

 

蛍や雪のようなわずかな光を頼りにするくらい学問に励むことを「蛍雪の功」と言いますが、これも場面は夜です。日中は外で働いて、夜は家で読んだり書いたりする。昼は自分の外側の世界と向き合い、夜は自分の内側の世界と向き合う。そのようなライフスタイルが続いてきたからということもあるでしょうが、夜には内面と向い合わせる、引力のようなものがあるのかもしれません。

 

中原中也に『月夜の浜辺』という詩があります。

月夜の晩に、ボタンが一つ

波打ち際に、落ちてゐた。

 

それを拾つて、役立てようと

僕は思つたわけでもないが

なぜだかそれを、捨てるに忍びず

僕はそれを、袂に入れた。

 

月夜の晩に、ボタンが一つ

波打際に、落ちてゐた。

 

それを拾つて、役立てようと

僕は思つたわけではないが

   月に向かつてそれは抛れず

   波に向かつてそれは抛れず

僕はそれを、袂に入れた。

 

月夜の晩に、拾つたボタンは

指先に沁み、心に沁みた。

月夜の晩に、拾つたボタンは

どうしてそれが、捨てられようか?

 

月夜に浜辺に出ると、ボタンが一つ落ちていた。これという目的もなく拾ったが、どうにも捨てることができず、和服の袂に入れた。たったそれだけの内容の詩ですが、ここでは僕がいかに内面と向き合っているかが描かれています。

僕は何の気なしに拾ったボタンを捨てるかどうか逡巡します。別に捨ててもいいのだけど、どうにも捨てることができない。何かが僕の中にわだかまっている。月に投げ捨てることも、波に向かって投げ捨てることもできないで、袂に入れる。袂に入れるとは自分のものとするということです。指先で触れていたボタンは心を震わせるモノに置き換えられ、僕に受け入れられる。浜辺で見つけたときと袂に入れたときとで僕にとってのボタンが持つ意味合いが変わったのは、僕が僕自身に問いかけ、向き合ったからでしょう。

これが昼だったらどうだったでしょうか。僕はボタンを物質としてしか捉えられず、投げ捨ててしまったかもしれません。

 

人は古くから夜に自分と向き合ってきた。時代が流れ、世代が変わっても、夜が人々の生活にある限り、読んだり書いたり、浜辺を歩く人はいるでしょう。姿かたちも声も知らない誰かと、夜という一点でつながる。そう考えてみるのもおもしろいかもしれません。

なんてことをとりとめもなく思いながら、今夜も過ごしています。

 

a.r10.to