本読むうさぎ

生きるために、考える

『草の花』から死との向き合い方を考える

 

『草の花』福永武彦 物語の内容に触れます。

 

 

作品説明

研ぎ澄まされた理知ゆえに、青春の途上でめぐりあった藤木忍との純粋な愛に破れ、藤木の妹千枝子との恋にも挫折した汐見茂思。彼は、そのはかなく崩れ易い青春の墓標を、二冊のノートに記したまま、純白の雪が地上をおおった冬の日に、自殺行為にも似た手術を受けて、帰らぬ人となった。まだ熟れきらぬ孤独な魂の愛と死を、透明な時間の中に昇華させた、青春の鎮魂歌である。(新潮社より)

 

あらすじ

サナトリウム(長期入院のための療養施設)で出会った「私」と「汐見茂思(しおみしげし)」。検査結果がどんなに悪くても涼しい顔をして煙草を吹かす汐見と私は交流を持つが、汐見はなかなか過去を語ろうとしなかった。冬のある日、汐見は成功率の低い手術を半ば強引に受け、帰らぬ人となる。私は汐見が遺した2冊のノートを見つけ、彼の過去と孤独を知っていく。

 

この小説のエピグラフ(巻頭に置かれる詩の引用)には聖書の一節が載っている。

 

人はみな草のごとく、その光栄は草の花の如し。

(ペテロ前書 第1章 24)

 

大まかな訳としては、人はすべて草のよう(に枯れるもの)であり、人の世の光栄は草の花のよう(に散るもの)である。となるだろうか。

 

なぜタイトルが『草の花』なのか。草の花にはどのような意味が込められているのか。

「愛」と「孤独」を足掛かりに考えてみたい。



二つの問い

汐見は18歳のときに一つ年下で同じ部活動に所属していた藤木忍(ふじきしのぶ)を、24歳のときに彼の妹の千枝子(ちえこ)を愛したが、愛は成就しなかった。

 

ノートの中で汐見はこれまでの人生を思い返し、二つの問いを持つ。

 

”果して僕は、そんなにも輝かしく昔生きていたのだろうか。愛されることに成功しなかった僕、愛することにのみ満足すると言いながら、内心の苦悩に心を引き裂かれていた僕、果してその僕は、むかし一点の悔いることもなく生きていたか。”

 

”そして更にもう一つの疑問、僕の愛した者たちは何故に僕を去ったか、僕の中の何処が間違っていたのか、僕の歩みは決して彼等を傷つけることはなかった、ひとり僕が傷つけられたのは、ただ僕の魂がひ弱くかぼそいものに過ぎなかったからだ、ーーと、そう言い得るだろうか。要するに、僕は間違っていなかったのか。”

 

汐見はこの二つの問いを自らに投げかけたが、それはそのまま読み手である私たちへの投げかけである。

一点の悔いもなく生きた人などいるのだろうか。悔いとは自分の行いを振り返り、ほかにも選択肢があったことに気づいたときに生じる心の動きだ。自分が取れる行動の選択肢を広げてくれるのが悔いである。悔いがあるおかげで、自分の行いを一歩引いたところから眺めることができる。悔いがなければ、自分の行いを客観的に眺めることもなく、同じ行いを繰り返すことになってしまうだろう。

 

愛する者と分かり合えなかった汐見はその原因を自分の愛し方、つまり行動や発言にあるのではないかと考えた。



英雄の孤独

汐見は部活動の合宿で、先輩から愛と孤独について次の話を聞く。

 

”愛することの靭さと孤独の靭(つよ)さとは正比例しないのさ。相手をより強く愛している方が、かえって自分の愛に満足できないで相手から傷つけられてしまうことが多いのだ。しかしそれでも、たとえ傷ついても、常に相手より靭く愛する立場に立つべきなのだ。人から愛されるということは、生ぬるい日向水(ひなたみず)に涵(ひた)っているようなもので、そこには何の孤独もないのだ。靭く人を愛することは自分の孤独を賭けることだ。たとえ傷つく懼(おそれ)があっても、それが本当の生き方じゃないだろうか。孤独はそういうふうにして鍛えられ成長して行くのじゃないだろうかね。”

 

孤独と聞くと、惨めなもの、かわいそうなものというイメージをしがちだが、孤独とは人間を強く成長させるものであると先輩は語る。

愛も孤独も、他者との関わりを前提としている点で同じ土俵に立っているが、関わり方としては対極の位置にある。

愛が人を強くするとはよく聞くが、孤独が人を強くすることもありうるのだろうか。

 

汐見は孤独について考えを深め、祈りのようなものであるという考えにいたる。

 

”真の孤独というものは、もう何によっても傷つけられることのないぎりぎりのもの、どんな苦しい愛にでも耐えられるものだと思うね。それは魂の力強い、積極的な状態だと思う。それは、例えば祈っている人間の状態だ。祈りは神の前にあっては葦のように弱い人間の姿だが、人間どうしの間では、これ以上何一つ奪われることのないぎりぎりの靭さを示しているんだ。”

 

これ以上奪われることのないぎりぎりの状態、だから弱い/強いはどちらも成り立つ。

孤独を弱いか強いかに分けるものがあるとすれば、それは認識の差だろう。

汐見は人間を強くする孤独を「英雄の孤独」と名づけた。以来、彼にとって孤独は重要な価値観となる。



眩暈のような恍惚感

汐見は生きることを「一種の陶酔」のようなものであると言う。生きるとは「自分の内部にあるありとあらゆるもの、理性も感情も知識も情熱も、すべてが燃え滾(たぎ)って充ち溢れるようなもの」であり、生き生きと生命力に溢れる状態を「眩暈(げんうん)のような恍惚感」と表した。

 

”生きるということは、自己を表現することだ、自己を燃焼することだ、精いっぱい生きるためには、自分の感情生活をも惜しみなく燃焼させなくちゃね”

 

藤木忍や千枝子への愛に生きていた汐見にとって、生きることは燃え盛る炎のように見えたのかもしれない。生きることは燃え盛る炎と捉えている。

英雄の孤独を大切にする汐見だが、愛する者と共にいたいという思いがあり、孤独と愛の間で悩み苦しむ。



死生観の変化

生きる炎を燃やし続けるには薪が必要だ。

愛する者との別れ、従軍までと、従軍中の生活、サナトリウムへの入院という経験は汐見の死生観に大きな影響を与えた。孤独が人間を強くすると信じ、孤独によって愛の苦しみを乗り越えようとした汐見だが、ノートに「僕は生きるという名に値するほど、この人生を生きたわけではない」との言葉を遺してこの世を去ることになる。

 

”僕は過去をもう一度やり直すことも出来ないし、未来をこれから試みることも出来ない。僕は現在も未来もない人間で、ただ過去を持っているばかりだ。そんな僕が、一体どうしたならば、真に生きることが出来るだろうか。空しく過ぎる人生は、どうすれば真に自覚して引き留められるだろうか。”

 

愛や孤独というものは生きるからこそ感じることができる感情だ。生きるとは、未来があるということである。

愛と孤独の間でもがいた汐見にとって、死は彼の価値観の土台を根底から破壊するものであった。

 

”何にもならないのに。ーー僕の藤木に寄せた愛がどんなに大きかったとしても、それは何にもならなかったし、愛を拒んだ藤木も。空しく死んでしまった。愛も、孤独も、執着も、拒絶も、遂には何にもならなかった。”

 

英雄の孤独であれ、眩暈のような恍惚感であれ、愛する者や自分自身の死を乗り越えることができなかった。

 

まとめ

タイトルにもう一度立ち返ってみる。

人はみな草のごとく、その光栄は草の花の如し。

人はすべて草のよう(に枯れるもの)であり、人の世の光栄は草の花のよう(に散るもの)である。

 

英雄の孤独と眩暈のような恍惚感の板挟みにありながらも強い人間を目指した汐見だが、どちらをもってしても死を乗り越えることは出来なかった。

愛や孤独によってどんなに美しく、力強い花を咲かせようと、最後は枯れて死を迎える。誰も死の運命から逃れることは出来ない。

「草の花」には、死の運命から逃れられない人間への、それでも懸命に生きようとする人間への祈りが込められているのではないか。

 

汐見は死を乗り越えることが出来なかった。では、私たちはどうだろうか。

『草の花』は今も静かに、死とどう向き合うかを問いかけているのかもしれない。

 

a.r10.to