本読むうさぎ

生きるために、考える

厳正な知力で楽しむ曖昧さ

電撃が走るという表現がある。

衝撃的な印象や感銘を受けた様子を電撃に例えた言葉だ。実際に体に電撃が流れたことがない人でも(ほとんどの人がそうだが)、どんな感覚なのかなんとなくイメージができるだろう。「天啓」とか「インスピレーション」をあてることもある。

先日、まさに電撃が体を駆け抜けた。

 

本を読む楽しみの1つは、それを書いた人を知ることだ。物語であれ自己啓発であれ、文章にはその人の個性が表れる。水のように流れる気持ちや事象を、言葉というバケツを使って汲み取る。バケツの形によって水の見え方が変わるように、言葉によって気持ちや事象の見え方も変わる。どのバケツを使うかはその人の次第だ。だから、文章にはいやおうなしにその人らしさが滲み出る。

言葉を選ぶということは、それ以外の言葉を選ばないということだ。本を読むということは、川から汲んだバケツの水を見るようなものだ。バケツの向こうには、言葉にならなかった、できなかった、広大な思想の川が流れている。小林秀雄は個性とは言葉のような目に見えるものではなく、「奥の方の小暗い処に、手探りでさがさねばならぬもの」だと述べた。手探りをするなかで作者とめぐり合うのだ。つまり、読書とは、言葉を入り口にして、作者(の思想)を自らの中に創りあげる営みである。

作者(の思想)を自分で創るのだから、正解も終わりもない。ほかの本を読むことで新たな一面を知り、創造の精度を上げる。そうやって、不確かで曖昧な作者(の思想)をより鋭く、より豊かなものにしていく。小林の言葉を借りて言えば、「厳正な知力を傾けて、曖昧さの裡に遊ぶ」のだ。

「厳正な知力を傾けて、曖昧さの裡に遊ぶ」。何と味わい深い言葉なのか。心の掛け軸にしたためて、玄関に張りだしたいくらいだ。持てる限りを尽くして、言葉に敏感に、正解も終わりもない曖昧さを楽しむ。そういう人でありたい。

 

a.r10.to