本読むうさぎ

生きるために、考える

自分の欲望を満たしているか

誰かの悩みを解決する記事を書きたいと思えば思うほど、心の底から伝えたいことから離れてしまう。

 

言葉を書いたり楽器を鳴らしたり絵を描いたりする、いわゆる「表現」と呼ばれるものは、常に自分が出発点である。人に見せる見せないは別として、自分の中にある何か、自分を突き動かす何かを体の外に出さずにいられない。乱暴な言い方をすれば欲望を満たすために人は表現する。

自分のために動くのだからどこまででも動ける。何万文字でも書いてもいいし、同じ小節を何千回と繰り返し鳴らしてもいい。キャンバスをはみ出して部屋中を塗りたくっても構わない。逆に、一声、一音、一画で欲望を出し切ることもある。なんなら「一」すらもいらないこともある。「自分の欲望を満たしたか(できそうであったか)」が重要だ。

 

ところが誰かのために動くのは勝手が違う。誰かの欲望を発散するための表現なのだから、「誰かの欲望を満たしたか」という結果を常に求められる。誰かのご機嫌をうかがい、誰かに振り回されるようにになってしまう。

結果を追い求めるレースになると、自分が心から表現したいことからどんどん離れていく。そうして、(自分にとっては)空疎な表現とも呼べない何かが出来上がる。

視聴者からの反応を前提としているYouTubeがいい例だ。登録者数、再生数を稼いぐためにまめまめしい努力をしていることだろう。努力は涙ぐましいが、自分のための表現と誰かのための表現が曖昧になってしまった(と感じる)動画をあちこちで見かける。

 

表現はまず自分のためにあるべきだ。自分の欲望を満たしているか。表現者は今一度、出発点を見つめ直す必要があるのではないだろうか。