本読むうさぎ

生きるために、考える

「生きづらさ」の海を乗り越える 『BUTTER』に見る生き方

 

はじめに

人生はよく航海に例えられる。広い海に浮かぶ小さな船。一人であくせくと漕いで島を目指す。人生の時間のほとんどは船を漕ぐのに費やされる。たまに島を見つけて休憩するが、ずっとはいられない。またそこを離れて海へ出なければならない。どこへ向かって、何のために漕ぐのかわからない。でも漕がなくてはならない。陽射しに焼かれ、波に飲まれながら、それでもオールを漕ぐ手を止めることはない。

 

努力が実らない。妬み嫉みの的にされる。正当に評価されない。面倒ごとに巻き込まれる。不安に震え、顔色を伺う日々。それでも生きることを止めることはない。

自分なりに一生懸命やっている。たまにサボったり誘惑に負けたりするけど、概ね頑張っている。たまにミスしたり怒られたりするけど、それでも歯を食いしばって耐えている。なのに一息つく島が見つからないどころか、陽射しはさらに高く、波はさらに激しさを増す。

 

なぜ人生は生きづらいのか。どうすれば楽になるのか。

人生の目的は、「生きづらさ」の海を乗り越えることと言ってもいいかもしれない。

 

「生きづらさ」との向き合い方について、『BUTTER』を手がかりに考えてみたい。

 

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あらすじ

男たちの財産を奪い、殺害した容疑で逮捕された梶井真奈子(カジマナ)。若くも美しくもない彼女がなぜ――。週刊誌記者の町田里佳は親友の伶子の助言をもとに梶井の面会を取り付ける。フェミニストとマーガリンを嫌悪する梶井は、里佳にあることを命じる。その日以来、欲望に忠実な梶井の言動に触れるたび、里佳の内面も外見も変貌し、伶子や恋人の誠らの運命をも変えてゆく。(新潮社より)

三人の男性を殺害したとして、一人の女が逮捕された。名前は梶井真奈子。この事件は世間の脚光を集めるが、それは事件の残忍さからではない。彼女の見た目が醜いからだ。若くも美しくもなく、なによりも太っている梶井に対し、男性は侮蔑を、女性は嫌悪を示した。

週刊誌記者の町田里佳は梶井への取材を進める中で、次第に社会や自身が抱える「生きづらさ」と直面していく。

 

主な登場人物

町田里佳

男性週刊誌で記者として働いている。中学生の頃に父親が亡くなったのは自分のせいだと思っており、罪悪感を抱いている。女子高時代は「王子様」と呼ばれ、同性からモテていた。次第に梶井に引きつけられ、彼女の指示に従うようになる。

 

梶井真奈子

フェミニストとマーガリンを嫌悪し、出会い系サイトで知り合った複数の男性と交際して奔放な生活を送る。料理に並々ならないこだわりを持ち、逮捕される直前まで自身のブログで持論を語っていた。

 

狭山伶子

里佳の大学時代からの親友。里佳と同じ雑誌社で働いていたが、現在は専業主婦として里佳の相談相手となっている。父母とは幼い頃から関係が悪く、夫とも子どもをつくることへの温度差で悩んでいる。



1.現代病

努力して出した結果よりも、日々いかに努力しているかがその人の質になる。努力ってことと、辛いってことが混同されてきて、辛い人が一番偉い世の中になっちゃったりして

努力するのは当然で、いかに努力しているかが重要だと見なされる。夏の甲子園で出場チームが紹介されるとき、選手のインタビューや練習風景が映される。「このチームは努力してきたんだな」と視聴者に了承されるため、汗や涙に感動を覚えることができる。

同様に、辛いのに耐えることも感動を呼ぶ。シンデレラが多くの人に愛されるのは、彼女が家事を精いっぱいこなし、継母たちからのいじめにも耐えているからだ。家事をサボってばかりで家族仲良しなお嬢様だったら、これほど人気にはならなかっただろう。

努力することと辛いのに耐えることが当たり前となった。結果、努力=辛い=偉いという式が浸透した。

 

特に女性に対しては努力がより強く要求される。

 

もっと努力しろ。でも絶対に世界を凌駕しない形で

痩せる努力、美しくある努力、若々しくいる努力。女性が努力するのは当たり前で、どれか一つでも欠ければ努力不足とされる。体重が増えても男性だと貫禄が出たと褒められるが、女性だと不摂生だとけなされる。

努力が前提となっているのにもかかわらず、女性は男性を超えてはいけない。どれほど努力したとしても「女性」の範疇を出ることはなく、ゆくゆくは家庭に入ることが当然だとされる。2022年発表のジェンダーギャップ指数(GGI)を見ても、日本は146か国中116位と低位であり、男女間の溝はいまなお深い。

里佳は取材してきた女性を見て「何かに強く怯え、ストイックに我慢し、異常なほど謙虚で、必死に自分を守ろうとしている」と感じ、身を削るほどの努力が前提となっている社会を現代病と表現する。

 

 

2.適量

里佳は伶子と「適量が難しい時代」になったと話す。自分にとって合う味やサイズである「適量」を見つけ、それぞれで楽しんだらそれで十分なはずなのに、失敗や損をすることを過度に恐れ、自分の適量に自信を持てなくなった人が増えたという。何をどれくらい食べるか、誰とどう過ごすかに喜びを感じるのは人それぞれ違うのだから、比べられるものではないはずなのに、「正解」に近づこうと努力する。そうして自分を追い詰めてしまう。

 

どんな女だって自分を許していいし、大切にされることを要求して構わないはずなのに、たったそれだけのことが、本当に難しい世の中だ

女性は常に痩せていること、美しくあること、若々しくあることが求められる社会。そのような社会で好きなものだけを食べたり要求したりすることは相当な覚悟を必要とする。里佳自身、体型を気にかけたり、取材の中で「女」を利用するときがある。里佳なりに必死に勝ち取ってきたはずなのに、「私の居場所はどんどん私自身の努力によって収縮していく」感覚に襲われる。



3.自然の摂理

「適量」を見つけられず苦しむのが里佳や社会とするならば、「適量」を見つけ、楽しむのが梶井と言える。

 

何よりもまず、自分を許している。己のスペックを無視して、自分が一人前の女であることにOKを出していた

努力によって女性としての価値を上げるのではなく、女性であることがすでに価値あるものとして生きる梶井。痩せていて、美しく、若々しくいることから外れたところで生きる梶井に世の女性は激しく動揺する。「男の人をケアし、支え、温める」ことが自然の摂理に従うことだと考え、男性に尽くすのが女性のあるべき姿だと主張する。

梶井がこのような考えを持つようになった背景には故郷での生活、「女」の体が大きく影響していた。

 

 

おわりに

人によって「適量」は違う。私の「適量」は私しかわからない。私の「適量」を知るには私の目で見て、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、手で触れて、舌で味わうしか道はない。時には多すぎたり少なすぎたりすることもあるだろう。しかし、そうして「適量」を知ることで身の丈に合った生き方ができるのではないだろうか。里佳のように生きる道もあるし、梶井のように生きる道もある。もちろんどちらとも違う道もあるはずだ。「生きづらさ」の海に溺れそうな時、それはもしかしたら「適量」を探っている最中なのかもしれない。そう言い聞かせて生きる道もある。