誰もが「幸せ」になりたいと願って生きていると思います。少なくとも、不幸になるために生きている人はいないでしょう。おおげさに言ってよければ、人生の目的は「幸せ」になることかもしれません。
人生楽ありゃ苦もあるさと歌うこともあれば春の夜の夢のごとしと嘆くこともある。古今東西、国や文化を問わず「幸せ」について語られてきました。
そもそも、「幸せ」とは何なのでしょう。
たくさんのお金や物に囲まれること?
社会や誰かの役に立つこと?
世間のしがらみを忘れて風に身を任せること?
どれもがそうだと言えるし、そうだと言えない。
「幸せ」になりたいと願うも「幸せ」とは何か説明できない。昨日まで「幸せ」だと感じたことが今日にはそうでなくなっている。そんな曖昧で移ろいやすいものに惑い、振り回されているうちに今日が終わる。
目の前にぶら下げられたニンジンを追いかける馬のように、届かない「幸せ」をいつまでも追い求めるのが人生なのでしょうか。
世の中はさらに豊かに、便利になっています。
なんにでもなれる、どこにでも行ける世の中。できることが増えるに従って「幸せ」の在り方も多種多様になりました。その結果、自分にとっての「幸せ」が見えづらくなりました。
「幸せ」を考えるとき、いつも思い出すのがアンパンマンのマーチの一節です。
なんのために生まれて なんのために生きるのか
こたえられないなんて そんなのはいやだ
なにが君のしあわせ なにをしてよろこぶ
わからないままおわる そんなのはいやだ
(アンパンマンのマーチより)
その日食べるものに困らず、雨風に震えることも、外敵に怯えることもない毎日は端から見れば「幸せ」でしょう。
温かいご飯を食べ、家族や友人と語らい、明日に胸を馳せ眠りに就くことができる「幸せ」の中に生きている。
「幸せ」とは何かを考えられる時点で「幸せ」なのかもしれません。
「幸せ」の中にいながら「幸せ」になりたいと願うが、「幸せ」とは何かわからない。
そんな禅問答のような、矛盾のような苦しみを抱えています。