本読むうさぎ

生きるために、考える

幸せとは何か 『山のあなた』を足掛かりに

山のあなた

出会ったのは高校生の頃だったかと思う。

国語か社会の資料集の片隅に載っていたではなかったろうか。自分以外の誰もそれについて触れなかったから、目に留まりやすいところではなかっただろう。

 

ドイツの詩人、カール・ブッセの詩を上田敏が翻訳した『山のあなた』という詩がある。

 

 山のあなたのなほ遠く

 幸(さいわい)住むと人のいふ

 噫(ああ)、われ人と尋(と)めゆきて

 涙さしぐみ帰りきぬ

 山のあなたになほ遠く

 幸住むと人のいふ

 

七五調が心地よいのと、文語で書かれているのにハマり、何度も何度も繰り返し唱えるうちに諳んじるまでになった。

現代語に訳すと次のようになるか。

 

 山の向こうのさらに遠くに

 幸が住んでいると「人」が言うから

 「われ」は「人」と一緒に尋ねて行ったが

 涙がわいてきて帰ってしまった

 山の向こうのそのさらに遠くに

 幸が住んでいると「人」は言う

 

ざっくり言ってしまうと、幸せを求めて探しに行ったが、見つけられず帰ってしまったという内容なのだが、「幸せとは何か」を考えるうえでおもしろい指摘をしているように思う。

 

今回は2点について考えたい。「幸せとは何か」の一意見として読んでもらえたらと思う。

 

「幸住む」と言ったのと「尋めゆきて」行ったのは同じ人物か。

同じ人物だとしたら、「われ」は「人」から幸があると聞き、一緒に探しに行ったことになる。この場合、「われ」と「人」はとても近い関係にある。「われ」にとって「人」は信頼の持てる人物であり、一緒に探し歩くときも安心感をもつだろう。

幸が見つからず涙ぐんで帰る「われ」を励まし、それでも幸はあると言い切る「人」は家族であり、友であり、あるいはパートナーであるかもしれない。

肩を落とす「われ」を支え、一緒に探しに行ってくれる存在だ。

 

一方で違う人物だとしたら、「われ」はそれほど親しくない「人」から幸があると聞き、親しい人と探しに行ったことになる。その場合の「人」は実在する誰かでなくてもいい。インフルエンサーであるかもしれない。あるいは、世間一般の常識だと考えることもできる。

誰か(世間)が言う幸に振り回され、疲れ果て、涙を湛えて帰ってくる。誰か(世間)は変わらず幸はあると声高に叫んでいる。

「われ」の痛みなどおかまいなしに、「こっちの水は甘いぞ」と誘いかける存在である。

 

なぜ「山のあなた」に「幸」があるのか。

山とは物理的な距離や困難ではなく、精神的なことを指している。

本当に山の向こうに幸があるだろうか。あなたの近くにある山を想像してみてほしい。その向こうに幸があると言われて納得するだろうか。

日本一の高さをもつ富士山だとどうだろう。富士山を越えた先に幸があるだろうか。

では日本を飛び出て海外はどうだ。世界一の高さを誇るエベレストの向こうに幸はあるのか。

どこまで行こうと「幸」の入った宝箱はないのだ。

 

つらいとき、「ここではないどこか」へ行きたいと願うことがある。

自分が嫌になったとき、「あの人になれたら」と想像したこともある。

生きていても苦しいことばかりで嬉しいことなど1つもない。

幸は自分の手の届かないところ、苦悩や困難の先にあるもの、というイメージが「山のあなた」に表されているのだろう。

 

「幸せとは何か」

以上の2つを踏まえて、幸せとは何かを考えてみたい。

幸せとは何かを人に尋ねてみたり、一緒に探したりするが見つからず、涙をこらえながら帰っている。それでも人や世間は幸せはあると言い切る。

これはつまり、幸せとは誰かや世間と重なることはなく、どこまでも自分の中で完結するものということである。自分が考える幸せと周りが言う幸せは一致しない。

幸せは自分の中で完結するものだが、自分一人では見つけられず、誰かに支えられたり、導かれたりしないと見つけられない。なんとも苦しいジレンマだ。

しかもその幸せは物理的に離れたところに存在しているのではなく、苦悩や困難を越えた先にある、というイメージがあるため余計見つけづらい。

 

幸せは自分の心の中にある、という言葉は好きではない。

心とは概念だ。様々な出来事を理解したり、納得したりするのに都合がいいから心という考え方を生み出した。

もしも見ることも触れることも聞くこともできない心の中に幸せがあるとしたら、どうやって幸せになれるというのか。

 

だから幸せになるには、「これが自分の幸せだ!」と決めつけ、見たり触れたりできるよう形を与えなければならない。自らを奮い立たせ、思いの海に「えいや!」と飛び込み、「ままよ!」と汲み上げる。幸せになるには勇気がいる。本のタイトルにつかえそうだ。

 

古今東西多くの人が幸せについて悩み、考えてきた。答えは出ていない。ここで示したものも絶対の答えではないし、納得できないところもあるはず。

それでも、幸せとは何かを考えることは決して無駄ではない、と決めつけることにしている。不幸せになるために生きている人はいない。

これからも幸せについて考えるが、今日のところは現在地を示して締めようと思う。

 

幸せとは、決めつけることである。