胸の泉に 塔和子
かかわらなければ
この愛しさを知るすべはなかった
この親しみは湧かなかった
この大らかな依存の安らいは得られなかった
この甘い思いや
さびしい思いも知らなかった
人はかかわることからさまざまな思いを知る
子は親とかかわり
親は子とかかわることによって
恋も友情も
かかわることから始まって
かかわったが故に起こる
幸や不幸を
積み重ねて大きくなり
くり返すことで磨かれ
そして人は
人の間で思いを削り思いをふくらませ
生を綴る
ああ
何億の人がいようとも
かかわらなければ路傍の人
私の胸の泉に
枯れ葉いちまいも
落としてはくれない
一歩外に出ると様々なモノと出会う。必ずしも人である必要はない。道ばたの花や流れる雲など、私たちは何かしらと出会うものだ。そう考えると、私たちの日々は、出会いに満ちていると言えるではないだろうか。
出会いに満ちているとはいえ、普段は出会ったことにすら気づかない。昨日まで咲いていなかった花が咲いているのにも、電線にかけられた巣をゆっくりと歩くクモにも、世界を照らす陽の光にも、気づくどころか、そこにあるだろうと関心を持つことすらない。
モノと出会うには、関心を持つことが必要だ。
関心を持つとは、粗探しをするということではない。絶え間なく情報のシャワーを浴びることではない。目の前のモノをただ受け止めるということだ。私とモノの間にひと呼吸つくということだ。
「かかわる」とは、私とモノとの適切な距離を測ることである。近すぎれば冷静さを失い、遠すぎれば熱意を失う。近すぎず遠すぎず、熱意を持ちながら冷静に向き合うことができる距離を探る。
関心を持ってかかわる。ひと呼吸ついて距離を取る。時には近すぎたり遠すぎたりしながら生を綴っている。
今日、私は何かと出会っただろうか。関心を持ってかかわることができただろうか。胸の泉の水面を見つめ、問うてみる。