本読むうさぎ

生きるために、考える

世界とつなぐ窓

感想文が嫌いで、何でもかんでも「すごかった」で済まそうとする子どもでした。

 

 

言葉は自分と世界をつなぐ窓です。窓が多いほど風通しがよくなり、新鮮な空気を心に送ることができます。また、窓の向こうに広がる景色をすみずみまで眺めることもできます。

「すごかった」で済ましていた子どもの頃は、何がどうすごいのか、なぜ自分はすごいと感じたのかを言葉で表すことができませんでした。これでは、本当に「すごかった」と感じているとは言えません。そのものの良さの表面の薄皮をつまんだ程度の「すごかった」なのです。

 

知っている、使える言葉が多いほど世界を鮮やかに切り取ることができる。

知っている、使える言葉が多いほど自分を豊かに表すことができる。

 

あの頃から10数年経ち、言葉の価値に気づくようになったこの頃です。

 

時間が経ち、科学技術は驚異的に発展しました。10年前にはAIという言葉すら耳にしなかったのに、今では生活のいたるところにAIが浸透し、なくてはならないものとなっています。

技術が発展する一方で、言葉の価値がないがしろにされているように感じます。

 

 

言葉の価値について、長田弘は『なつかしい時間』の中で次のように述べています。

 

  携帯電話やFAXやパソコンのメールや携帯メールが、言い回しやヴォキャブラリーをゆ  たかにするのでなく、逆に、ニュアンスや表情をどれほど貧しくしてきたか、というこ  とを考えます。笑うは爆笑で、破顔一笑も呵々大笑もない。わかったは了解で、合点も  承知もない。頃合や時分を計るということもなく、なにより間や間合いをとることが、  人と人のあいだに、いつしかなくなりました。(長田弘『懐かしい時間』)

技術が発展するということは、今までできなかったことができるようになり、知らなかったことを知るようになるということ。知らなかった言葉と出会うことで、今までなかった言葉が生まれ、広まり、次の言葉を生み出すタネとなる。ところが、あらゆるものを1つの言葉で言い表してしまうことで、それぞれの言葉がもつニュアンスが貧しくなっています。

 

盛りを迎えた桜が花びらを差し伸ばす春の美しさも、夕暮れの空に雲が薄くたなびく秋の物哀しさも「エモい」にまとめられる。

届かない想いが募りに募った恋慕も、陰から励まし支える敬愛も「推し」で片づけられる。

 

自分と世界をつなぐ窓が増えるどころか、1つにまとめられてしまい、繊細で豊かな感性がのっぺらぼうになる。

技術が発展し、目まぐるしく変化する現代だからこそ、立ち止まり、言葉と向き合う時間が必要なのではないでしょうか。

 

先日キャンプに行き、朝焼けを眺めました。身を切る風の冷たさに肘を抱き、暗いうろこ雲を下から赤く照らしていく日を黙って眺めました。朝の澄んだ空気に明らむ空は一日の始まりを告げるにふさわしく、寒さとは違う震えが体の奥から湧き上がりました。「すごかった」の奥にある心の動きをできるだけ正確に、偽りなく表すことができる

 

よう、言葉と向き合い、言葉を磨いていきたいものです。