石川啄木『一握の砂』には、「かなし」という表現が多数出てくる。
いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ
かなしきは
喉のかわきをこらへつつ
夜寒の夜具にちぢこまる時
人といふ人のこころに
一人づつ囚人がゐて
うめくかなしさ
握りしめた指のあいだから落ちる砂も、各々の心にいるという囚人も、見たり触れたりできるモノの奥、容易には知覚することができない「かなし」の姿の一つである。
「かなし」は全人類が持つ共通のものでありながら、誰とも分かち合うことのできない個別のものである。
私の「かなし」のすべてを他者に伝えることはできないし、他者の「かなし」のすべてを知ることもできない。
人間はどこまで行っても独りであり、むしろ、群れれば群れるほど、誰にも自分を分かってもらえない孤立感を抱えることになる。
そんな独りである私に寄り添ってくれるのが、言葉ではないだろうか。
顔も名前も分からない人が残した言葉に慰められることがある。
奥底に澱となって沈んでいる気持ちとも呼べないモノが汲みとられ、光を当てられることがある。
寄り添ってくれる言葉は詩集の1ページに見つけたり、街角に流れる歌に聞こえたりすることがある。
言葉を蓄えた心はつよい。
「かなし」にびくともしないという意味ではない。
「かなし」に暮れることがあっても、いつか立ち直ることというしなやかさを持つという意味だ。
「かなし」を分かち合うことはできないと分かりながら、それでも他者の「かなし」へ思いを馳せるという意味だ。
私の「かなし」は私だけのものだ。
私の「かなし」に石川の「かなし」がとける。
私の「かなし」でありながら、私だけの「かなし」ではない。
私も、誰かの「いのちなき砂」へ思いを馳せることができるようになるだろうか。