本読むうさぎ

生きるために、考える

生きるとは悩むこと

病気休暇に入ってから1週間が経ちました。

1日中家にこもってゲームに明け暮れたり、ちょっと遠出して山に登ったりなど、自分のしたいことをして過ごしています。

好きなことをしているので充実感はあるのですが、一方で、このままではよくないという思いもあります。

 

家族の負担。夕食の支度や簡単な掃除はしているのですが、それでも「仕事に行っていない男」が家にいるというだけで、家族の負担になっている。のではないか。という不安。「自分ばっかり好きなことをしていいのだろうか」と家族に顔を向けにくい感じがします。(遠慮する必要はないということも頭ではわかっている。)

 

もう一つは、これからの生き方。働きたくないという思いと、新しいことにチャレンジしてみたいという2つの思いがあります。どちらも本音。どちらも大切な思いだからこそ、折り合いのつけ方がわからない。

好きなことをしているときも頭の片隅ではこれからどう生きるかということを漠然と考えている。もやもやが晴れない。

 

「自分」という核は存在するのでしょうか。「心」という風船を満たすガスが「自分」であり、見ることも、触ることもできないものではないでしょうか。その日、その時によってガスは形を変え、1秒として留まることはない。こうなりたいという願望も、しばらく時間が経てば消えてなくなり、あんなに欲しかったものも、次の日には魅力的に見えない。千変万化に移ろうのが「自分」というものなのでしょう。

これからの生き方についてYou Tube大先生で調べてみても、核がしっかりとしている人の動画ばかり。そりゃそうか。「自分」がはっきりしている人じゃないと動画を投稿しようと思わないか。求めているのはガスのような「自分」を確固とした「自分」にするまでの過程。どんな人生を歩み、どんな人と出会い、どんな経験を経て今へ至ったのか。生き方をどう見つけてきたのか。(見つけるという表現もおかしいですけど。)

 

ブログを書いたり、他の人の記事を読んだりして考えを広げようとしていますが、そもそも自分の中に揺るぎないコレというものがないから、どこか遠くに感じてしまう。自分事として考えられていないんですね。チャンスはそこらへんにたくさん転がっているのでしょう。でもそれに気づく準備ができていない。気づくためのきっかけがほしい。ガスをつかもうと何度も手を伸ばしている今の状況。つかめないことは知っているけど、他の方法を知らないから、手を伸ばすことしかできない。そんなもどかしさを感じています。

 

生きるとは悩むこと。霧の中を歩くこと。これからどう生きればいいのでしょうか。