本読むうさぎ

生きるために、考える

「何もない」から生きられる

 

 中学生の頃、生きている実感がもてなかった。私と世界の間に薄い膜がある感じ。気がついたら朝は夜になり、季節が移り、クラスが替わる。世界に取り残される。不安で不安でたまらない。でも、何が不安なのかうまく言えない。そんな不安定な少年時代を過ごした。

 

 今、生きている実感がもてない。朝起きたと思ったら仕事に行き、一息ついたと思ったら夜になっている。慌てて明日の準備をして、そそくさと眠りに就く。そんな生活。これを生活と呼べるのか。

 

 社会人となって5年、1,2年目は目の前の今日をどう生きるかで精一杯だった。不安定な状態だったが、駆け抜けた。3、4年目。仕事に慣れ、ゆとりが出てきたが、休みの日にすることがない。1日家にこもる日もあった。そして5年目。私は何のために働くのか、なぜ仕事に人生を奪われるのか、私がしたいこととは何か、考えることが多くなった。考えていたら、わからなくなった。

 

 なぜ、私は働いているのだろう。

 皆さんは、どうだろうか。

 

 

 9月に辞める意向を伝え、今年度で辞める予定だ。次は未定。

 何も考えない時間を作ってみたいと思った。

 

 「無用の用」という言葉がある。老子の言葉だ。「こしき(車輪と車軸をつなげる棒)が集まることで車輪としての機能を果たすことができる。器は中が空洞になっているから器としての機能を果たすことができる。部屋は中に何もないから部屋としての機能を果たすことができる」。ざっとこんな意味だ。形あるものに価値があるのは、形ないものが存在しているからだ。

 

 今、私に必要なのは、何もない状態なのではないか。ぎゅうぎゅうに押し潰されて息ができなくなっている。隙間を空けて、新しい空気を取り込む。そういう時期なのではないか。

 

 皆さんは、どうだろうか。

 息がしづらくはないだろうか。

 生きづらくはないだろうか。