心打つ文章がある。名文とか、美文とかと呼ばれる。
心地よいリズムだったり、含蓄に富んだ内容だったり、軽妙な言い回しだったり、人は時に、文章に慰められることがある。
仏教で人生は苦しみの海に例えられる。どこまで行っても岸にたどり着けず、激しい嵐に襲われる荒海。溺れないように板切れにしがみつく。浮きつ沈みつを繰り返す。生きるうえで、つらいこと、悲しいことは避けては通れない。
かつて日本人は、「かなし」を「悲し」とだけでなく、「愛し」あるいは「美し」とすら書いて「かなし」と読んだ。悲しみにはいつも、慈しむ心が生きていて、そこには美としか呼ぶことができない何かが宿っている
若松英輔『悲しみの秘義』
楽しいときに「なぜ人生はこんなに楽しいのだろう」と考える人はいない。つらいとき、悲しいときに「なぜ人生はこんなに悲しいのだろう」と考える。悲しむということは、人生に思いを馳せるということ。答えの出ない問いを考え続けるということ。
宮沢賢治は『青森挽歌』で「かんがへださなければならないことは どうしてもかんがへださなければならない」と書いた。感じられないこと、答えを出せないことのまわりをぐるぐると回りながら、それでも考えなければならない。
若松は悲しむことで「新しい人生の幕開けに立ち会っているのかもしれない」と述べている。そうであったら嬉しい。悲しみの厚く重たいカーテンの向こうは白く照らされている。そう思い込むことにして、今日も生きる。