神と愛の違いはなんだろう。
どちらも目に見えない。手で触れない。「こういうものだ」と定義することができない。けれどもそれを信じる人にとっては、時には命よりも優先されることがある。温度も、匂いもないのに、温もりや安らぎを感じる。
考えてみると、「信じる」とは何とも不思議な行為だ。「食べる」や「歩く」のようにどのような状態かを見ることはできない。また、信じながら疑ったり、疑いながら信じたりすることもできる。
神や愛について考えるとき、いつも思い出す文章がある。
希望、情愛、信頼、慰め、励まし、癒し、どれも生きていく上でなくてはならないものだ。いずれも見ることもできなければ、手で触ることもできない。とはいえ、見えないことと、ないこととは違う。見えないが存在する、そうしたものが、私たちの人生を底から支えているらしい。
若松英輔『悲しみの秘義』
私たちは誰しも、「内なる詩人」を宿しているという。散る桜に儚さを感じたり、昇る朝日に希望を見出したりなど、真理や善、美といった見えないもの、触れないものを信じることができるのは「内なる詩人」がいるからだ。
神や愛が存在するかどうかは問題ではない。そこにあると信じること、「内なる詩人」に耳を傾けること、なのではないだろうか。