人と接するときに「この人が望んでいる反応」をしなきゃいけないととらわれていた。今もとらわれている。
幼い頃から、ふとした発言で相手の機嫌を損ねたり、傷つけたりしてしまったことが多い。
学生の頃からの友人から悩みを打ち明けられたとき、あれをしたりこれをしたりすれば良いと助言めいたことを並べた。
友人の役に立ったと得意気になっているところに彼が「ただ話を聞いてほしかった」と呟いたのが聞こえた。
彼の気まずそうな顔が今でも残っている。
そんなわけで人と接するときには自分の考えはできるだけ言わず、相手が望んでいるであろう反応を心がけている。
悪口を言う人にはにこにこして「そうだよね」と合わせ、愚痴を溢す人には神妙な面持ちをして「そうだよね」と同情する。
ここで「いや、あの人はこういう素晴らしさがあるよ」とか「でもこっちも大変なんだよ」とか言おうものなら嫌われてしまう。
沈黙は金という言葉もあるように、自分の意見は黙っておくことで良好な人間関係が築ける。
そんな状態を続けていたせいで、いざ自分の意見を言わなきゃいけないときに頭が真っ白になってしまう。
「この人はどう言ってほしいのだろう」とまず考えてしまい、自分が言いたいことが奥に引っ込んでしまう。
「空気を読む」のは美徳だ。そこには周りの状況や相手の反応を捉える力、嫌な思いをしないように配慮する力が表れている。
「空気なんか読むな!」みたいな風潮が流行り、そこかしこに傍若無人な人が増えた。
相手に配慮することと、実際に行動することは別のベクトルだ。
空気を読まない=好き勝手する ではない。
話が大きく逸れてしまったが、「この人が望んでいる反応」をするのが悪いのではなく、そうすることで自分の考えを表現しにくくなっていることが問題だ。
相手に配慮しつつ、自分の考えを伝える。
一文に収まるが、これがなかなか難しい。
空気は読んでも飲まれないタフネスが必要なのかもしれない。