本読むうさぎ

生きるために、考える

高校生を見て昔の自分を思う

昼頃にいつものカフェに行ってみると、制服姿がちらほら。

うさぎが通っていた高校の生徒のようです。テスト期間なのでしょうか、黙々と参考書とにらめっこする後輩を見ていると学生の頃の記憶が蘇ってきました。

高校を卒業してから10年。当時のうさぎは何に悩み、憧れていたのでしょう。

毎日いろいろなことを感じ、考えていたはずなのに、思い出せるのは断片ばかり。

 

休み時間にトイレに集まってだらだら話したこと。

トイレの窓から身を乗り出して景色をぼんやりと眺めたこと。

窓下の隙間にガムの食べかすが落ちていたこと。

好きだった人を遠くから眺めていたこと。

担任の先生がGに驚いて廊下中に悲鳴を響かせたこと。

 

大事なことはもっとほかにあったはずなのに、思い出すのはしょうもないことばかりです。

テスト勉強をしたこととか、将来について考えたこととかはまったく思い出せません。

 

ところで、「大事なこと」って一体何でしょう。

「大事」を調べてみると、「重大な事件、大切」と出ました。

では「大切」とは何だろうか。「値打ちが大きいさま、丁寧に扱うさま」と出ました。

自分にとって重大な事件、値打ちが大きいものとは何でしょう。

 

高校生のうさぎは何を重大と捉え、何に値打ちを感じていたのか。

記憶には残っていないけど、確かな「何か」として今のうさぎにつながっているはず。

その「何か」とは、「価値観」や「人生観」のように名前をつけようと思えばつけられるのかもしれない。

でも重要なのは名前をつけることではなく、「何か」が積み重なって今の自分があるということ、それ自体ではないでしょうか。

 

 

人と話していると、自分は覚えていないことでも相手は覚えているということがよくあります。

同じ出来事でも、自分と相手とで心に残った「何か」は同じとは限らない。

同じものを見て、聞いて、触れたとしても、積み重なった「何か」は人によって違う。

自分と相手の違うところや似ているところを見つけるのがおもしろいから、人は誰かと関わろうとするのかもしれません。

 

人は記憶だけでできているわけではありません。記憶に残らなくても、もしくは、記憶に残らないからこそ、その人を形づくる「何か」がある。私たちを形づくっているのは劇的な非日常ではなく、当たり前の、なんとなく続く日常なのかもしれない。

 

テスト勉強に一段落ついたのか、おしゃべりを始めた高校生。一緒に携帯電話をのぞき込んだり、肩をたたき合ったりしています。

なんてことのない日常の一コマを10年後も覚えているかはわかりません。

でもなんてことのない日常の一コマが、彼らを形づくっていくのだと思うと自分も慰められたような気がします。

 

彼らの中に温かい「何か」が残ることを祈ってカフェを出ました。