祖父の三回忌で住職さんから四苦八苦の話があった。
・生苦(しょうく、生きることの苦しみ)
・老苦(ろうく、老いることの苦しみ)
・病苦(びょうく、病となることの苦しみ)
・死苦(しく、死ぬこと、死が近くにあることの苦しみ)
の4つ根本的な苦しみに、
・愛別離苦(あいべつりく、愛するものと別れる苦しみ)
・怨憎会苦(おんぞうえく、怨み憎しむものと会う苦しみ)
・求不得苦(ぐふとく、欲しいものが得られない苦しみ)
・五蘊盛苦(ごうんじょうく、身体と心が思うようにならない苦しみ)
の4つの苦しみを足して四苦八苦と呼ぶ。
人の世は様々な苦しみに満ちている、という話だった。
人として生まれた瞬間から死へと向かわなきゃならない私たちにとって、死と向き合うのは避けて通れないものである。
生を考えることは死を考えることであり、死を考えることは生を考えることである。
桜を美しいと思うのも、蝉の声に命の力強さを感じるのも、背後に死が横たわっているから。
一年中桜が咲いているなら、わざわざ集まって花見をすることはないだろう。蝉が一年中鳴いているなら、うるさくて害虫扱いされるだろう。
終わりがあるとわかっているから美しいと感じ、「ああ、もうその季節が来たのか」と季節の移ろいを感じることができるのだ。
私たちの生活には、常に死が寄り添っている。
生きるために考えるのは、死ぬために考えるのと同じことだ。
もう一つ。亡くなったら初七日、四十九日、一周忌、三回忌…と節目に法要がある。
法要をきっかけに離れ離れの人たちが集まり、近況を伝え合う。
故人を供養するためもあるが、人と人をつなぐ役割も果たしている。
亡くなった人が、生きている人たちを結ぶ、「ご縁」を結ぶのだ。
自分が死んだら、法要のために離れ離れの人たちが集まる。自分が、人と人をつなげる。そう思うと、死も悪いものではないかもしれない。
次の法要は七回忌。4年後だ。
どこでなにをしているのだろう。
どこでどんなふうに生きているのだろう。
生きるために考えていきたい。