本読むうさぎ

生きるために、考える

教養の真髄:知識と教養の違い

「教養」とは何でしょう。

世界一高い山の名前やどこかの国の民族衣装の名前を知っていれば教養があると言えるでしょうか。

書店に行けば「大人の教養」とか「知らないと恥ずかしい教養」といった見出しの本がずらりと置かれていますが、あまりの浅はかさにめまいがします。

教養とは、生き方です。目で見ることはできない、けれど確かに感じられる、その人の世界への姿勢です。

先の例で言うと、世界一高い山の名前やどこかの国の民族衣装の名前というのは知識です。知識と教養は違います。知識は服やアクセサリーのように取ってつけ替えることができます。海に泳ぎに行くときには水着を、パーティーにはドレスコードを着ていくように、季節や場面に応じて身につけるものを変えます。知識も同じように、必要なときに、必要な知識を身につけますが、用が終われば忘れられます。知識の量を競い合うテレビ番組が数多くありますが、実生活に結びついていないので実に空疎です。

着脱可能な知識に対して、教養は簡単に変えることはできません。その人を形づくる筋肉であり、骨だからです。筋肉や骨というのは鍛えたり、食事を摂ったり、休んだりするなど、長い時間をかけて少しずつ作られます。一朝一夕にできるものではありません。世界一高い山の名前が人によって変わらないように、知識は誰にとっても同じ形をしていますが、教養は人によってまったく違います。スポーツ選手の体つきが種目によって異なるのと同じです。

他の人をマネした格好が似合わないことを「服に着られる」と表現します。なぜ似合わないのかというと、着る人の土台が違うからです。おしゃれだから、流行だからとマネしても、服装に適した体格をしていなかったら様になりません。身の丈に合った服装をしてはじめて「服を着こなす」と言われます。教養と知識の関係もこれと同じで、身の丈に合っていない知識をいくら集めてもそれは賢いとは頭がいいとは言えません。知識がその人に結びついていないので、どこか浮いているんですね。知識をひけらかす人はかえって節操のないように見えます。

教養は見せびらかすものではありません。ふとしたときの仕草や言葉遣いに現れてしまうものです。その人の考え方や価値観、引いては人生との向き合い方が表れたのが教養です。なので教養のある人というのを並べ立てることはできません。見ることができるのはその人の人生が反映された結果としての仕草や言葉だからです。

教養を磨く手軽な方法は、自分で考えることです。何を見ても聞いても、これはどういうことなのか、本当にそう言えるのか、自分で自分に問いかけることです。

 

知識を求めるばかりで、教養が育っていないのではないか。服やアクセサリーは次々と買い求める一方、食生活を見直したり、運動したりといった自分自身を磨くことを怠っていないのではないか。はたして私は、どれだけ私の教養を築いているでしょうか。そんな自分自身への戒めを残しておきます。

 

a.r10.to

 

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