本読むうさぎ

生きるために、考える

牛丼屋

腹の虫の声で昼だと気がついた。携帯電話と財布をポケットに詰め、近頃SNSで話題の牛丼屋へ向かうことにした。

 

その店は県道沿いの小さな雑居ビルの一角にあった。写真を見てみると、店の外壁だけ塗り直したのだろう、ビルの外壁よりも白いためにそこだけ浮いて見える。窓ははめ殺しのすりガラスになっており、外から食べているところを覗かれる心配なはい。扉は欅だろうか、濡れたように黒く艶を帯びた一枚戸はカフェと見間違えてしまうほどの存在感を放っている。「牛丼屋らしくない牛丼屋」がキャッチフレーズのようで、店の前でポーズをきめたり扉を背景にドリンクを写したりした投稿が大量に流れてきた。

店の前についたときにはすでに長蛇の列だった。店の扉はビルの自動ドアと横並びに県道へ面しているため、行列はビルの出入りの邪魔にならないよう店の角に伸び、そこで折れ、路地へと続いていた。ビルの裏側は何かの作業場になっているのか、低い機械音が聞こえた。列を横目に最後尾に加わった。すぐ後から来た客が後ろについた。

キッチンにつながるドアの前には蓋つきのポリバケツが置いてあったが、空なのか匂いはしなかった。

昼飯時から外れているのにこんなに人が並んでいるということはよほどおいしいのだろう。飯はまだかとぐずる腹の虫をなだめながら料理の感想の投稿を眺めた。店側はSNSをやっていないため、そこを訪れた人の投稿が貴重な情報源なのだ。

一通り目を通したところで路地から県道沿いの通りに出た。列の先頭を見てみると10人ほどがおり、店に入るにはまだかかりそうだった。

扉の前に立て看板があり、列の隙間からちらちら覗く文字をつなげると「ただいま満席です。案内があるまでお待ちください」と読めた。読み終えるのとビルの自動ドアから配達員が出てくるのは同時だった。どうやら荷物を運び終えたようだ。次の配達先を確認しているのか、伝票を荒々しくめくっている。あくせく働く人がいるすぐ横で、牛丼のために何十分も待っている人がいる。その対比がどこかおもしろかった。駆けていく配達員の背中を見送り、そのまま視線をすりガラスに移すと、窓際に座っている客であろう白いシャツと、その奥で忙しそうに右に左に動く影が滲んで見えた。こちらも、サービスを与える側と受ける側だ。両者がいて上手に世の中は回っているということか。

すりガラスを眺めながら経済の原理に感心していると後ろから咳払いが聞こえた。数人分の距離が空いていた。慌てて間を詰める。

携帯電話を取り出してメニューを紹介している投稿を開く。SNSには定番の牛丼や季節の限定品、他所では見ない一風変わった商品と、見ているだけで腹が減る写真がこれでもかと載っていた。気になったのは投稿数がもっとも多い四種のチーズを使ったチーズ尽くし牛丼と期間限定の黒毛和牛に秘伝のタレをかけた極上牛丼だった。

不思議なのは、カフェのような外観とおいしそうな牛丼の写真はたくさんあるのに、店内を写したものは一枚もないことだった。店内は撮ってはいけないきまりなのだろうか。そのため席はいくつあるのか、内装はどうなっているのかといった情報は実際に入ってみるまでわからなかった。

一番人気か期間限定かに絞ったが、そこからどちらにするかを決めかねた。すりガラスの方に目をやる。白いシャツの客は、何を食べているのだろう。その奥では相変わらず忙しそうに影があっちへ行ったりこっちへ来たりしていた。

チーズ牛丼と極上牛丼の間を行ったり来たりする自分が思い浮かんだ。締まりなく開いた口からよだれがマンガのように溢れている。とりとめのない想像をしている間にも、列は進んでは止まってを繰り返した。

どちらを食べるかは店に入ってから決めることにして、牛丼を食べた後の予定を立てていると次の客が案内された。これで自分の前にはイヤホンをつけた男性一人と、男女二人の二組となった。

前が進むのに合わせて列を詰めているとふとあることに気がついた。

客はどんどん店に入っていくが、誰も店から出てこない。

客の出入り口は県道に面した一枚戸の一つだけ。満席なのだから勘定が済んだ客を出さなければ次の客を入れることはできないはずだ。それなのに、次々と客を案内するとは、どういうことだろう。

落ちつかなくて振り返った。さきほど咳をしたであろう目の前の女性が怪訝そうな顔でこちらを見た。前に向き直る。

もしかすると入り口と出口は別になっていて、食べ終えた客は雑居ビルに抜けるようになっているのかもしれない。

一枚戸から自動ドアまでの距離を見ると、店からビルに抜ければすぐに自動ドアが見えるはずだ。配達員が出入りしたのだから自動ドアは使える。店を抜けてすぐに外に出られるのにわざわざ雑居ビルの裏口を通る理由はない。しかし、配達員のほかに自動ドアを通る者は誰もいなかった。

おかしい点はもう一つある。すりガラスを見る。窓際の白いシャツの影が、まだそこにいるのだ。いくら何でも牛丼を食べるにしては時間がかかりすぎている。食べ終わっているとしても、満席の店で居座り続けるには限度があるはずだ。客でないとしたら、店員が休んだり作業したりしているのだろうか。そういうものは普通、客の目につかないバックヤードで行うのではないか。客のいる前でくつろぐ店員というのも変だ。客でも店員でもないとすると、なんだ。人形か。いやいや、客が座るスペースを潰してまで窓際に人形を置く必要とはなんだ。

イヤホンをつけた男性が店に入った。疑問は不安となっていく。

客はどこへ消えたのか。そういえば、店内の写真がないのもおかしい。料理の写真はあるのに、店内の写真だけがないのは不自然だ。

何か聞こえないかと耳を澄ましてみたが、作業所からの機械音と後ろの客の話し声のほかに音はなかった。

このまま並び続けてもいいのだろうか。中に入ったら、何かまずいんじゃないのか。

すりガラスの白いシャツの影はまだそこにある。それが一層不安をかき立てる。一枚戸が開いて男女二人が吸い込まれていく。誰も出てこない。ついに自分が先頭になった。目の前には年月を経て黒く変色した扉がそびえている。

たかだか牛丼屋だろう。異常があれば騒ぎになって、飛び出す人だっているはずだ。入ってしまえばどうということはないさ。腹が減ってるから神経質になるんだ。しっかり食って人心地つけばなんてバカなことで不安になっていたんだろうと笑い飛ばせるさ。冷静になろうぜと自分に言い聞かせると、もう一人の自分が怯える声で反論した。それでも誰一人出てこないなんておかしいじゃないか。あの白い影は一体なんだ。窓は開けられず、写真もない。こんなの言わば一つの密室だ。中で何があってもわからない。入ってから後悔しても遅いんだぞ。

扉は光も音も吸収するかのように静かに立っている。一度入れば、二度とは出られない気がする。今すぐ開くようにも、一生開かないようにも思える。

心臓が波打っている。脇から嫌な汗が出ている。なのに体は縫い付けられたように動かない。

扉がかすかな軋みとともに開く。邪気というものを知らないような笑顔の青年が顔を出す。こちらの顔を見ると心の底から嬉しそうな声で笑いかける。

 

「たいへんお待たせしました。どうぞお入りください」