本読むうさぎ

生きるために、考える

言葉について

 毎日1時間は書いています。読んだ本のこと、日頃考えていること、その時思いついたことなど、とにかく考えを残すことを意識しています。

 

 言葉は心の川を流れる水を掬う器です。器の形に合わせて水が形を変えるように、言葉に合わせて気持ちが形作られるのではないでしょうか。

 言葉の数だけ、いろいろな気持ちを作ることができる。気持ちを表現することができる。逆に、言葉が少ないと、作れる気持ちが限られる。表現できる幅も狭くなる。そうして言いたいことが言えなくなる。

 言葉を知ることと、自分を表現することには強いつながりがあるのです。

 

 「やばい」という言葉が流行したとき、日本語の乱れだと嘆く声があちらこちらで聞かれたそうです。最近で言うと「エモい」でしょうか。

 いくつかの意味が一つにまとめられると、ちょっと困ったことが起きます。次のような場合、「やばい」はどのような意味で使われているのでしょうか。

 駅前に新しくできたラーメン屋に食べに行った友達に感想を聞いたら、「あそこのラーメンやばいよ!」と言われた。

 はたしてラーメンの何が「やばい」のでしょう。味がおいしいのか、それともまずいのか。盛り付けが山盛りなのか、もやししか載っていなかったのか。良い意味で言っているのか、悪い意味で言っているのかが曖昧です。

 もう一つ、「やばい」がおいしいの意味で使われていたとして、どれくらいのおいしさだったのかがわかりません。「そんなにやばいんだ!」と返したとしても、友達が感じた「やばい」と私が想像した「やばい」が一致しているかどうかはわからないのです。

 おいしさを表す表現には「うまい(美味い)」「デリシャス」「妙味」「絶品」などたくさんあります。一つひとつニュアンスが違っており、使う言葉によって話し手が伝えたいことも変わってきます。一方、すべてを「やばい」の一語で済ませてしまうと、話し手が伝えたい気持ちが見えなくなる。感情がのっぺらぼうになる。使い続けるうちに自分でもどんな気持ちなのかわからなくなる。自分で自分の気持ちがわからないほど不安なことはないでしょう。

 

 言葉を知ることと、自分を表現すること。

 

 人と話したり、本を読んだりするだけでは言葉を知るとは言いません。会話の中で使ったり、文章に書いたりしてようやく知ることができます。今の時代、実に簡単に言葉を手に入れることができます。しかし、自分のものになっていない言葉には熱意がない。コピペの文章には感情がない。手に入れた言葉を噛みしめ、飲み込み、分解し、溶かし、吸収する。じっくり自分のものになるまで蓄えてから表現する。何度も何度も表現する。この一連の流れを繰り返す中で、言葉は少しずつ自分に合った器となっていく。使いこまれた器はたとえ形が歪でも、味わいがある。

 

 ブログを書いていると、自分が書きたいことがうまく表せないときがあります。こう思っていたはずなのに、言葉にするとどこかしっくりこない。気持ちをぴたりと言い表す表現が思い浮かばない。壁に当たったときこそが、言葉の生まれる瞬間です。壁を乗り越えたり、打ち壊したりする中で生まれた言葉こそが本当の自分の言葉。長年握った鉛筆が手にぴたりと合うように、「ああ、これだ」という言葉と出会うのです。

 

 最後に塔和子さんの「胸の泉に」の一節を紹介して終わろうと思います。

 オチのない話にお付き合いいただきありがとうございました。

 

   幸や不幸を

   積み重ねて大きくなり

   くり返すことで磨かれ

   そして人は

   人の間で思いを削り思いをふくらませ

   

 

 

 

 

生を綴る