本読むうさぎ

生きるために、考える

なぜ知ろうとし、伝えようとするのか

 

はじめに

私たちは日に何百、何千という情報に触れる。流行のスイーツに芸能人のゴシップ、政治や経済の様子など、情報に触れない日はない。それと同時に、見聞きしたことを伝えもする。SNSを開けば新しい投稿が次々と流れてくるのも、愚痴やうっぷんが溜まれば誰かに話したくなるのも、人間が持つ根源的な欲求によるものなのかもしれない。

テレビやネットを見ていると、何を知るのか、何を伝えるのかという「何か」にばかり重きが置かれ、なぜ知りたいのか、なぜ伝えるのかという「なぜ」の部分が抜け落ちているような気がする。

 

なぜ私はそのことを知ろうとするのか。なぜ私はそのことを伝えようとするのか。

 

ありとあらゆる情報が手に入り、発信できる世の中だからこそ、改めて、それらの行為の意味を問い直す必要があるのではないか。



今回は、知ること、伝えることの意味について、『王とサーカス』(東京創元社米澤穂信)を基に考えたい。

 

あらすじ

2001年、フリーライター太刀洗万智は偶然訪れたネパールで王族殺害事件に遭遇する。名を売る千載一遇のチャンスと取材を開始した太刀洗は王宮の警護にあたっていた軍人と面会する。しかしそこで、なぜお前は記事を書くのかを問われた太刀洗は言葉に詰まってしまう。記者としてのアイデンティティーを揺さぶられた太刀洗だったが、翌日、上半身が裸に剝かれた男性の死体を発見する。背中に密告者を意味する「INFORMER」と刻まれた男性は、太刀洗に問いを突きつけた軍人だった。

 

信念

太刀洗は事件について軍人に質問しようとするが、逆になぜ伝えるのかと問われる。

彼女は真実を伝えるためだと答える。

軍人は真実ほどたやすくねじ曲げられるものはないと返し、続ける。

「お前が私の話を聞いてそれを書くというのなら、日本人がネパール王室に、この国そのものに持つイメージを一人で決定づける立場にいることになる。なんの資格もなく、なんの選抜も受けず、ただカメラを持ってここにいたというだけで。タチアライ、お前は何者だ?」

知は尊く、それを広く知らせることにも気高さは宿ると信じていた太刀洗だったが、答えられない。

かろうじて「信念」のためだと絞りだす。するとまた軍人から投げかけられる。

「泥棒には泥棒の信念が、詐欺師には詐欺師の信念がある。信念を持つこととそれが正しいことの間には関係がない」

「お前の信念の中身はなんだ。お前が真実を伝えるものだというのなら、なんのために伝えようとしているのか教えてくれ」

 

私も含め、老若男女、国籍、職業を問わずあらゆる人が情報を知り、伝えている。その中で、「なぜ私はそのことを知ろうとするのか。なぜ私はそのことを伝えようとするのか」と問うたことのある人はどれほどいるだろう。

専門的な知識や資格があるわけでも、誰かから選ばれたわけでもない私が知り、伝えようとする。

なぜ私なのか。私の信念とはなんなのか。

 

サーカスの座長

軍人は指を突きつける。

「お前はサーカスの座長だ。お前の書くものはサーカスの演し物だ。我々の王の死は、とっておきのメインイベントというわけだ」

私が書いたこと、伝えたことは私の手を離れ、受け取る側にゆだねられる。私がいくら高貴な信念をもっていようと、それをどう受け止められ、解釈されるかを決めることはできない。それは私のものであって、私の手に負えないという性質をもつ。

 

不適切な投稿をして逮捕された若者が言っていた。

「ほんの軽い気持ちだった」「こうなるとは思ってもいなかった」

若者に足りなかったのは責任感ではない。情報の逃れられない性質への理解だ。

 

私はサーカスの座長だ。私が発信したものはねじ曲げられ、尾ひれをつけられ勝手に泳ぎだす。誰かの癒しになることもあれば、誰かを踏みつけ、傷つけるために使われるかもしれない。私にそれを止めることはできない。そういうものを扱っているのである。

 

おわりに

軍人の指摘は太刀洗という記者を通じて、私たちへの指摘でもある。情報は形がなく、誰もが好きに扱うことができる。時には思いもよらないところで、大きすぎる力をもつこともある。私たちはそういうものを手にしている。

だからこそ私たちは改めて、自らに問いかける必要がある。

なぜ私はそのことを知ろうとするのか。なぜ私はそのことを伝えようとするのか。

 

a.r10.to