本読むうさぎ

生きるために、考える

努力の先の世界

努力の価値とは何だろう。

努力はすばらしいことだと教えられてきた。

反対に、努力しないことは怠惰だとも教えられた。

何の疑問もなかった。努力すればテストの点数は上がるし、サボれば下がる。10回素振りした人と1,000回した人では後者の打率が高いのは当たり前だ。

何かを成し遂げた人が成功の要因を語るとき、努力を上げない人はいない。

友情、努力、勝利を描いた物語に胸がときめかないことはない。

おおよその人は努力が好きだ。

 

でも。最近になって考える。努力自体に価値はあるのか。

どんなに勉強してもテストの点数は伸びないことはあるし、どんなに素振りをしても打席に立てないことはある。

私たちに求められているのは、常に結果だ。

 

努力というのはあくまで目的を達成するための手段に過ぎない。結果を出せれば、1回の素振りだろうが100回の素振りだろうがどちらでも構わない。

自分が学生だとして、テストで良い点数が取れればいいわけで、勉強の量や質が大事なわけではない。むしろ、楽に点を取れるならそれに越したことはないだろう。

結果が出せればいいのであって、努力の量はたいして重要ではない。

私たちは努力が好きだが、一方で重要なものとは考えていない。

 

そこではじめの問いに戻る。努力の価値とは何だろう。努力自体に価値はあるのだろうか。

 

努力するのはその先に結果があることを期待しているからだ。結果に繋がらないことがはじめからわかっていたら努力なんかしない。

テストで良い点数を取れないことがわかっているのに必死こいて問題を解くことはないし、打席に立てないことがわかっているのに血豆ができるほど素振りをすることもない。

努力のすばらしさはいたるところで叫ばれるが、なぜ努力するのかという目的の深掘りは聞かれない。

なぜテストで良い点数を取りたいのか。なぜ打席に立ちたいのか。

もう一歩踏み込んで考えてみる。テストで良い点数を取ることでどうなりたいのか。打席に立つことでどうなりたいのか。

さらにもう一歩。テストで良い点数を取ることで人生にどんな影響があると期待しているのか。打席に立つことが生き方にどんな影響を与えるのか。

この質問に答えられるようになると人生や生き方に影響を与える手段はほかにもあることに気づくだろう。そのうえで、それでも勉強や素振りという手段を選ぶのなら、以前と取り組む姿勢が変わるはずだ。

 

努力の価値とは何だろう。それを考えるには努力の先にどんな世界が広がっているのかを想像してみるといいのかもしれない。