本読むうさぎ

生きるために、考える

贅沢な時間

誰もわかってくれないような、ひっそりとした楽しみはあるだろうか。

 

うさぎは自宅療養中で基本家で過ごしている。住んでいる場所も田舎の方で、車が必要なところだ。

 

家にいても特にすることがない。

退屈とは、何とも贅沢な時間じゃあないか。

 

幼稚園・保育園から小・中・高・大とぴょんぴょん進んでいき大学卒業が近づくと就職活動に精を出す。仲のいい友達やサークルの仲間と袖を振り合い涙なみだの別れをしたかと思えばリクルートスーツに身を包んで朝礼で挨拶をしていた。そのまま駆け抜けて5年。さすがに疲れた。20年近く何かしらのレールに乗って走り続けて心も体も疲れ切った。

 

病気休暇を取るか悩んでいたとき、ある人からの「休む権利を得るために大学まで行かせてもらって学んできたんだから、堂々と取っていいんだよ」という言葉に背中を押された。

おかげで今、贅沢な時間を満喫することができている。

 

さて、そうやって贅沢な時間を満喫するのはいいが、暇なものは暇である。楽しみを見出さなければならぬ。かといってあまりお金がかかりすぎるのはよくない。退屈と向き合うには楽しみをもたねば。

 

うさぎは趣味で山に登っている。月に1回ほど。基本は一人だ。

山道を登りながら人の世の生きにくさを考えたり考えなかったりする。頂上に向かってとぼとぼ登っていくが、楽しいものだ。

名前を知らない花が草影にぽつんと咲いているのに自分を重ねることがある。「ああ、お前もひとりか」なんて呟く。

 

木立から漏れる陽の白さを知っているか。陽の光は白いんだ。

葉に当たって白く照り返るのがなんとまあ神秘的なものか。光が差さないところはひっそりと影に沈んで息を殺している。影にいて、木漏れ陽が輝く場所を見つけたときの安堵感。

木漏れ陽の中に佇むと、辺りは葉擦れ衣擦れの音、鳥の声だけが聞こえるばかりで独りだ。だが陽に包まれて温かい。

町の陽とは全然違う。寄り添ってくれるような温かさがある。

 

 

だから山に登るのかもしれない。幸福な孤独を味わうために。

 

退屈からだいぶ話が逸れてしまった。思えば、退屈とは一人のときに使うことが多い気がする。二人のときに退屈とはあまり言わない。言うなら気まずいとか、間が持てないだろう。

退屈と向き合うには幸福な孤独の時間を持つのがいいのかもしれない。

 

書いていたら山に登りたくなってきた。