一日という時間の見つけ方、まなざしの向け方ということから考えると、私たちは遠くを見やる、見はるかす、見通す、見わたすというような、心を遠くに放つという習慣をどこかで失って、もうずいぶんになるような気がします。
長田弘『なつかしい時間』
便利な世の中になって、これまで時間がかかっていたことが時間をかけずにできるようになったにもかかわらず、「時間がない」が口癖のように聞こえます。
趣味や旅行、イベントといった時間も、事務作業のようにこなしてはまた次の「タスク」を処理する。ベルトコンベヤーのように次から次へと流れてくる時間を消費することに余念がないような毎日。
「何もしない」ことが悪者のように扱われ、「何もしない時間」が生まれないよう、一分、一秒刻みで動かなくてはならないような毎日。
そうして私たちはどこかで「隙間」を恐れるようになってしまったのかもしれません。
日本家屋は部屋と部屋を襖で仕切り、閉じたり、開いたりして間合いを調節します。大人数が集まるときは部屋と部屋をつなぎ、寝たり集中したいときには閉め切る。時と場に応じて、「間」を使い分けます。
能楽においても、楽器の音がない「間」が重要だとされています。演奏していないから休みという訳ではなく、音を出さないことでメリハリをつけ、演者と客席を一つにする。
私たちも、「期限に間に合いそうにない」とか「二人きりだと間が持たない」のように、「間」に関する言葉を日常的に使います。
「間」という何もしない、存在しない空白地帯があるからこそ、私たちは人や社会と適度な距離を保ってきたのでしょう。
仕事や人間関係の煩わしさから解放され、本当の自分、ありのままの自分に戻りたい。でも、社会は「隙間」をなくそうといっそう慌ただしく急き立てる。だから仕方なく、本当は見たいわけでもないのに、スマホやパソコンで「隙間」を埋める。するといつの間にか時間が過ぎてくれるから、疲れながらもどこかほっとしてまた慌ただしさに身を投じる。そうして「隙間」をなくしてきた結果が「時間がない」という口癖であり、そしてそれは望んだとおりの結果なのです。
今、私たちに必要なのは、そして現に求めているのは、「隙間」を埋めることではなく、「隙間」を「隙間」のままでいること、空白地帯を持つことなのではないでしょうか。目の前の些事から目を離し、遠くを眺める。「心を遠くに放つ」というような「間」の使い方ではないでしょうか。
それはなにも人里離れた山奥に行かなければならないものではなく、身近でも、いや、身近だからこそ、目を向けるものがあるように思います。
空の様子はどうでしょう。空の色味は、雲の形は、風の温度は、遠くに聞こえる町の音は、鼻先を掠める匂いは。
花の様子はどうでしょう。花びらの形は、色は、盛りを迎えているのか、しぼんでいく最中なのか、芽は出ているのか、虫は飛んでいるのか。
そうした「隙間」の使い方、まなざしの向け方を意識してみる。
よく目にするもの、それでいて、見ていないものに目を向ける。それが、「心を遠くに放つ」一歩目ではないかと思います。