幸せになりたいと誰もが思う。
より良く生きたいという願望があったからこそ人類の発展は続いてきたのだし、100年前と比べると生活水準は比較にならないほど向上している。
では、私たちは幸せなのだろうか。
生きるうえで必要なものは充分すぎるほど揃っているはずなのに、物足りなさに喘いでいる。
幸せについて考えるとき、長田弘の文章を思い出す。
刻苦勉励して、希望や成功や幸福という「坂の上の雲」を手に入れながら、それらを手に入れたと思った途端に、むしろ目を見張るべき成果を、自らみすみす「坂の下の穴ぼこ」に落っことしてしまう。(長田弘『なつかしい時間』)
希望や成功や幸福もすべて「より良く生きたい」という願望である。
坂の上に広がる青空には雲が浮かんでいる。
願望という名の雲だ。
その雲を見上げながら、歯を食いしばり、汗水たらして、一歩いっぽ坂を上る。
そうやって人は、人類は、豊かさを手に入れてきた。
にもかかわらず、手に入れた端からそれらを削いでいる。
豊かになった、豊かであるはずなのに、自ら豊かさを放棄している。
その原因は「手に入れる」哲学ばかり磨き上げる一方、「使い方」の哲学に目を向けなかったからだ、と長田は述べる。
わたしたちの社会のあり方を傷つけてきたのは、「坂の上の雲」を望んで懸命になって「手に入れた」ものを、「使い方」をとんでもなく間違えて、「坂の下の穴」に放り込んできた歴史です。
お金や時間、知識や技術の手に入れ方は上手になったが、それらをどう使うかが拙いせいで幸福と感じることができない。
『三千円の使い方』という本が話題になったが、豊かさというのは、何をどれだけ持っているかではなく、持っているものをどう使うかという姿勢なのではないだろうか。
物はあるのに満たされない、お金や時間に余裕があるはずなのに窮屈に感じる。
そんなとき、「使い方」の哲学を考えてみてはどうだろうか。
例えば、三千円で幸福を感じるには、どう使えばよいか。
例えば、10分で幸福を感じるには、どう過ごせばよいか。
必要なものは既に持っている。「坂の上の雲」ばかり見上げるのではなく、足元に咲く花にも目を向けてみる。