週に一度、職場に電話を架けてくる人がいる。
不機嫌な声で開口一番「担当者はいる?」
担当が不在と告げると「はあ!?」そしてこれ見よがしに大きなため息。
そして担当への文句を言いたい放題撃ち散してぶつっと切る。
この人の声を聞く度に思う。
不機嫌は損だなあ、と。
不機嫌が周りに与える影響でいいことは一つもない。
感情であれこれ言ってくる人と良好な関係は築けないし、築きたくもない。
電話でしか話したことはないが、電話だけで距離を置きたいと思わせるほど相手に嫌な思いをさせる。
こういう人にはなりたくないと思う一方、そういううさぎも、誰かに不機嫌に接していないだろうか。
人は他者という鏡を通して自分を知る。
こういうときに思い出すのが吉野弘の『生命は』という詩の一節だ。
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている
私も あるとき
誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない。
周りから疎まれる他者。
こうなりたくないと思われる存在だが、そういう人がいるから世の中は回っているし、自分の気づきにもなる。
もしかすると、自分も、周りからこうなりたくないと思われているかもしれない。
「嫌な人」に出会う度、この人はうさぎのための虻だと思うようにしている。
この人はうさぎに何かを伝えてくれるために、嫌われる役目を負っている。
感謝するのはなかなか難しいが、心の中に留めるようにしている。