本読むうさぎ

生きるために、考える

読みおわらないことの幸福

人はなぜことばに救われたり、支えられたりするのだろう。

何気ない一言だったり、小説の一節だったりに心を動かされるのはなぜだろう。

 

国語の教科書にも載っている谷川俊太郎の『生きる』という詩がある。教科書のいちばんはじめに載っていて、四月の最初の授業で学ぶ詩だ。

 

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎてゆくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ

『うつむく青年』

 

 

詩人の渡邊十絲子はこの詩に突き放されたような疎外感を感じたそうだ。(『今を生きるための現代詩』)

 

(「生きる」にこころがふるえなかった)その理由は、ヨハン=シュトラウスピカソに代表されるような「大人の一般常識」をあてにしなければ、この詩は読む人に伝わらないからである。

 

ピカソが二十世紀の美術にどんなインパクトをあたえたか、ヨハン=シュトラウスの作曲したワルツやポルカが現代のわれわれの暮らしのなかにどれくらい響いているものか。つまり彼らが人類にとって魅力的な、すてきな存在だということの了解がなければ、この詩のなかの「ピカソ」「ヨハン=シュトラウス」ということばは「読めない」のである。

 

13歳のわたしは、この「生きる」という詩にこめられたリアリティーをまったく感じることができなかったため、わたしにとってこの詩はうすっぺらなことばの羅列にしか見えなかった

 

「詩にこめられたリアリティー」とは、詩に描かれた(または描かれなかった)情景や心情と、今の私が結びついているという実感である。生きている実感に乏しい子どもは、生命が誕生する営みの尊さや戦争によって人の尊厳が踏みにじられる痛みを共有できない。そのため、詩から疎外され、単なる文字としてしか詩と接することができない。

 

別れたときに失恋ソングを聞いたり、卒業を前に卒業ソングを口ずさんだりするのは、ことばと自分の経験が結びついている実感が湧くためだ。失恋や卒業が心に響いていなければ、当然、それらの歌も心に響かない。

 

では、私と結びつかなかった歌や詩は価値のないものだったということだろうか。

 

そうではない。

 

今の私の地点からはまだ見えない、感じられない、でもいつか経験するかもしれないという、将来への予感がある。懐で温めておけば、いつか経験したときに「ああ、あのことばはこういうことだったのだ」と身に染みることがあるかもしれない。今の私とだけではなく、将来の私と結びつく可能性もあるのだ。

 

渡邊は詩を読む楽しさを「読みおわらないことの幸福」と呼んだ。

詩はいつも傍にいる。私が求めると寄り添ってくれる、姿のない伴走者だ。

詩は難しいものと気負わず、構えず、気軽に向き合ってもいいものではないだろうか。

 

a.r10.to