本読むうさぎ

生きるために、考える

52ヘルツの私たち

文才がなければ絵心もない。楽器はリコーダー止まりで歌声なんて聞けたものじゃない。

教訓となるような経験はおろかお笑い草と呼べる小話もない。

隣の芝生は青々としているのに比べこちらはぺんぺん草も生えない荒地である。

時代を流れを汲み取った鋭い考察であろうと、誰かの傷に手を添えるような一言であろうと、読まれなければ意味がない。

書くことには思考を整理し、気持ちを落ち着かせる効果があるらしいが、それが目的なら裏紙にでも書き殴って、びりびりに破いた方が気持ちがいいだろう。

書くという行為には、特にブログやSNSを書く際には、意識的であれ無意識であれ「読まれたい」という欲求が潜んでいる。

 

読まれなければ、気づいてもらえなければ、いないのと変わらない。

 

「52ヘルツのクジラ」と呼ばれるクジラがいる。らしい。

ほかのクジラには聞こえない高い周波数で鳴くため、誰とも出会うことなく一頭で泳いでいるとされるクジラで、「世界でもっとも孤独なクジラ」とも呼ばれている。

彼の声はほかのクジラには届かない。ほかのクジラに彼の存在は認知されない。ほかのクジラにとって、彼はいないも同然である。いや、「いない」ということにすら考えが及ばない。

 

クジラは孤独でも生きられるのかはわからないが、人は孤独では生きられない。

誰もが人間関係で悩んでいる。家族との関係。友人や恋人、職場の同僚との関係。年齢を重ね、ライフスタイルが変わろうとも、「人とのつながり」に悩まない人はいない。

一人でいるのが好きだという人も、「人とのつながり」について述べている点で、悩みを抱える人と同じ土台に立っている。

どんな人であれ、「自分にとってほどよい距離感で誰かとつながりたい」と願っている。

 

誰かに読んでほしいから、届いてほしいから文章を綴っている。誰にも読まれないのなら、私の文章に意味はない。

私がそういう欲求を持っているのだから、ほかにもそう思っている誰かがいて当然だ。

52ヘルツのクジラに気がついてやれるのは、同じ52ヘルツの声で鳴くクジラだけだ。

 

今日もどこかでクジラが鳴いている。その声のすべてを拾えるわけではないが、ひとつでも多く拾えたらと思う。あのクジラは私だ。私が鳴いている。私の声に私が気づいてやらないで、誰が気づくというのか。

私たちの52ヘルツの声が海にこだまする。

 

 

a.r10.to

この本からインスピレーションを得た。私も52ヘルツのクジラであると同時に、ほかの52ヘルツのクジラを見過ごしてきたのである。