ロウソクの話をしよう。
目の前に一本のロウソクがある。マッチを擦って火をつける。静止しているかと思えば思い出したようにゆらゆらと火先を揺らす。
ロウソクが燃え尽きるか、密閉すると火は消えてしまう。
燃え続けるには「燃えるもの」「熱」「酸素」の三要素が必要というのは理科の復習だ。
バーンアウト(燃え尽き症候群)という症状がある。「あたかも燃え尽きたかのように意欲をなくし、社会的に適応できなくなってしまう(厚生労働省より)」状態を差す。
燃え尽きた人間はどこへも行けない。
10月に心を病んで休職した。自分のやりたいことと業務内容が食い違っていた。仕事への熱意ややりがいはあった。しかし多忙すぎる毎日にそれらは削られていった。削られて削られて、ついに燃えるものがなくなった。心が動かなくなった。体も動かなくなった。家で一日を過ごすようになった。頭は「動け」と叫ぶ。心と体は反応しない。動けるはずなのに動けないことに苦しんだ。家族が寝てからも眠れなかった。空が白んでも眠気が訪れないことが何度もあった。
自分とは何なのか、何のために生まれて、何のために生きるのか。なぜ自分は自分なのか、なぜこんなのが自分なのか。自分が生きているのに価値がないように、死ぬことにも価値はない。生きながらに死んでいる。自己否定の靄の中で立ち尽くした。
何かないかと家を漁った。宮沢賢治の『春と修羅』という詩集を見つけた。彼は己を「ひとりの修羅」と表現していた。
修羅は阿修羅のことで、善悪の中で葛藤し、戦い続けるという顔が3つで腕が6本の神である。六道における阿修羅道は怒りや驕り、愚かさの世界だ。
宮沢賢治はひとり戦っていた。己と、世界と、何もかもと。目には見えないところで、見えない血を流して。
これを読んだとき、胸に何かがストンと落ちた。
そうか。
そうか、おれも修羅だ。
おれも戦っている、ひとりで、血を流して。
戦っていたのは自分だけではなかった。同じように苦しみ、傷痕を残してくれた先人がいた。ひとりだけどひとりではなかった。彼はおれで、おれは彼だ。
自分は戦いの世界を生きる修羅だと気づいてから、体が動くようになった。体が動くと心も動く。靄の中を歩きだした。
9月から職場に復帰する。現実との戦いが始まるが、それは問題ではない。おれはすでに戦っている。
新しいロウソクに火を灯した。おれは修羅だ。どこまでも戦い続けるひとりの修羅だ。修羅の火を灯し、靄を歩いている。どこへ行き着くかはわからない。