紙の擦れる音、近くの公園から届く子どもの歓声。
店内はゆったりとしたピアノ曲で満たされている。
話し声はなく、それぞれが、ひっそりと自分の時間を過ごす。
沈黙の中でうさぎの意識は内へと向かっていく。
祈ることと、願うことは違う。願うとは、自らが欲することを何者かに訴えることだが、祈るとは、むしろ、その何者かの声を聞くことのように思われる。
若松英輔『悲しみの秘義』(ナナロク社)のはじめにある一節だ。
祈ることと願うことの違いについて述べた短い文章だが、読み返すたびに立ち止まり考える。
祈ることと願うことは似ているが違うことは感覚的にわかる。
どちらも他者に要求する姿勢であり、直接他者に向けて言葉にするというより、心の内に思い抱く性質のものだ。
合格祈願や初詣で神様に「~~なりますように」と手を合わせるのは、どちらかと言えば願うのイメージがある。
両手を固く組んで成り行きを見守るのも祈るというよりも願うの方がしっくりくる。
そうなると、祈るというはどのような場面で、何に対し行うものだろうか。
後半の祈ることについて、「その何者かの声を聞く」とある。
他者に要求するのに、その他者の声を聞くとはどういうことか。
書かれている文字の意味は理解できるのに、そこに描かれているイメージは霧のように掴みどころがない。
私たちは普段、大小や質を問わず、様々なことを願っている。
一方で、私たちはどれだけ祈ることをしているのだろうか。
筆者は「自分の願望で一杯だった」頃に欠落していたのは祈りであり、人生の声を聞くことができていなかったと回顧する。
祈りとは人生の声を聞くこと。では、人生の声とは何か。
そうして結論の出ない問いをもう何回も繰り返しているが、いまだに糸口さえ掴めていない。
祈ると願うの違いは何か。
「何者かの声を聞く」とはどういうことか。
宮沢賢治は『青森挽歌』で「感ぜられない方向を感じようとするとき」人は皆「ぐるぐるする」と語った。
進んだかと思えば戻ってきて、いつまでも辺りをさまよっている。
うさぎは今日も一羽、ぐるぐるしている。