アルバムの整理をしていたら、思いがけない写真が現れて驚かされることがあります。
長年会っていない友達の写真。道ばたに咲いていた花の写真。旅行で立ち寄った地元料理の写真。ふと綺麗だった夕焼の写真。
それまで思い出すことなどなかったのに、写真を目にした瞬間、匂いや感触、会話がありありと目に浮かぶ。一瞬自分がどこにいるかわからなくなる感覚。写真から芋づる式に思い出が引き出され、いつの間にか一人鑑賞会を開いていたことも。
特に心揺さぶるのは、何気ない日常の写真です。ぶれぶれでピントも合っていない、綺麗でも何でもない写真なのに、それを見ると記憶が鮮明に思い出されます。そして思い出すのは、たいていどうでもいい思い出。そうやって浸っている時間がなんとまあ心地よいことか。
お金をたくさんもっているとか、豪邸に住んでいるとか、有名であるとかといった幸せは、誰かと比べないと手に入れられません。自分よりも上の人はいくらでもいる。他人と比べている限り、永遠に幸せにはなれません。幸せではなく勝利を追い求めるのはつらいです。なぜなら、絶対の勝者以外、全員が負けているからです。
思うに幸せとは、絵にも歌にもならないようなありふれた日常そのものです。他人が聞いたら失笑してしまうような、ばかばかしく、どうでもいい日常に私たちは支えられ、救われている。
日本人は「映え」を強く意識する民族だと聞いたことがあります。「映え」とは「他人からどう見られているか」ということ。自分がよければそれでよしではなく、みんなにとってもよければそれでよし、という精神です。「私が幸せならそれでよし」な言動が多く見かけるようになりました。
「他人からどう見られているか」と「私が幸せならそれでよし」のどちらがよいか、という話ではありません。人の目を気にしすぎて好きなことを抑えるのも、他人の迷惑を顧みず好き勝手するのも極端です。問うべきなのは「自分も他人も納得する幸せを手に入れるにはどうすればよいか」です。自分も含めて、誰もが手を叩いたり足を鳴らしたりすることができる幸せを追い求めるのです。
Hondaの一人ひとりの喜びの実現に向けた「きょう、だれかを、うれしくできた?」というフレーズがあります。
「きょう、だれかを、うれしくできた?」シンプルで、温かく、優しい言葉。
今日、あなたは、誰かを嬉しくできましたか?私はどうだったでしょう。
明日は誰かを嬉しくできればいいですね。
特別なことなどいらない。今日という日を生きる。誰かを嬉しくできたらなおよい。
ありふれた日常にこそ、幸せは宿っています。