本読むうさぎ

生きるために、考える

「美」とは何か 『金閣寺』三島由紀夫

 

 

はじめに

 「あなたが思う美しいものといえば」と聞かれたら、何と答えますか?さらに、「なぜそれを美しいと思うのか」と聞かれたら?そこで、美と破滅が描かれた『金閣寺』を手掛かりに「美」について考えてみました。

 

あらすじ

 幼い頃に見た金閣寺に憧れを抱く学僧、溝口。吃音のため周囲とうまくコミュニケーションが取れない彼にとって金閣寺は煌々ときらめく永遠の象徴でした。家族や僧侶たちとの軋轢から思想の世界に深く入っていく溝口は、美の象徴である金閣寺を焼くことを決意します。

 

内容

 「美」とはどういうものなのか、登場人物の言葉を引用しながら考えていきます。

 

1 美=血?

 ある日溝口は同じ学僧仲間と話をするなかで次のように考えます。

 

 「なぜ露出した腸が凄惨なのであろう。何故人間の内側を見て、悚然(しょうぜん)として、目を覆ったりしなければならないのだろう。何故血の流出が、人に衝撃を与えるのだろう。何故人間の内臓が醜いのだろう。……それはつやつやした若々しい皮膚の美しさと、全く同質のものではないか。」

 

 若々しく、生命力にあふれるという点では、皮膚も内臓も同じ美しさであるという考えです。美」とは目に見える部分だけに対して用いる感覚ではなく、目に見えない部分にも用いる感覚だというのです。葉を太陽に透かして葉脈が走っているのを見たときのように、目に見えないものが見えたとき、そこに「美」を感じたことはありませんか。外面も内面も「美」として同質であることに気づき、彼の思考はより精神の内側に向かっていきます。

 

2 美=虫歯?

 次は溝口と同じ大学に通う別の学僧仲間の会話です。彼は脚が内側に湾曲し、日常でも引きずるように歩いている学僧で、溝口は彼に近しいものを感じています。彼は美を虫歯にたとえて、以下に続けています。

 

 「とうとう痛みにたえられなくなって、歯医者に抜いてもらう。血まみれの小さな茶いろの汚れた歯を自分の掌にのせてみて、人はこう言わないだろうか。『これか?こんなものだったのか?俺に痛みを与え、俺にたえずその存在を思いわずらわせ、こうして俺の内部に頑固に根を張っていたものは、今では死んだ物質にすぎぬ。』」

 

 「美」とは自分の中にあり、痛いほどに自分に影響を及ぼす。目に見えないときは常に自分を悩ませるが、目に見える形になると、とたんに「これじゃない」という感覚になる。目に見えないときにふくらんでいた理想や期待が、現実となると期待外れとなって失望する。「美」は目に見えるものではなく、「こうあってほしい」という肥大した理想や期待なのです。現実に表れた「美」を「死んだ物質」と表すことで、目に見える風景や建築、人の美しさを突き放しています。「美」とは自分の中で膨れ上がった理想、希望なのかもしれません。

 

3 美=認識?

 溝口は金閣寺を焼く決意をすることで、生きづらさから解放されます。ある夜、学僧仲間が「美」についてこのように語ります。

 

 「この世界を変貌させるものは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で変貌させるんだ。認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、そうして永久に変貌するんだ。」

 

 認識とは物事の見方です。つまり世の中をどのように見て、どのようなものと価値づけるかという自分の内側の問題なのです。道ばたの花に美しさを感じるのも、花が美しさをもっているからではなく、花に美しいという価値をつけたから、美しいと感じるのです。だから次の日に見たときには美しいと感じないかも知れない。そのときの自分がどう価値づけるかによって、世界の見え方は変わります。物それ自体を変えずとも、物事の見方を変えるだけで世界は変わる。「美」というものは、美しいものがあるのではなく、自分がそれを美しいと思うことによって生まれるものなのです

 

まとめ 

 以上、「美」について次の三点を見てきました。

①「美」は目に見える部分だけでなく、目に見えない部分にこそ感じるもの

②「美」は「こうあってほしい」という理想や期待である

③「美」は自分が美しいと価値づけることで生まれるもの

 絶対不変で、世界中の誰もが認める「美」というものはなく、そのときの自分がどのように受け止め、価値づけるかによって「美」は生まれる。「美」は常に自分の中にあるものなのです。特別な芸術品を見る必要はない。心のアンテナを広げて、いろいろなものに触れればいいのです。

 今日、美しいと感じることはありましたか?よく見て、聞いて、嗅いで、触れて、味わう。目の前のことに集中してみてはいかがでしょうか。